見出し画像

三島由紀夫が自決した日

1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自決をした事件が起きた日である。

三島事件と呼ばれる。

三島と同じ団体「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。

この事件54年が経ったが、今の日本を取り巻く環境を見ても三島が憂いたことが現実となっているのに、日本は軍隊を持たず法的には何も変わってはいない。

東部方面総監室で東部方面総監益田陸将を人質に取り、三島は自衛官を集め総監室のバルコニーから演説した。


自衛官約800から1000名が、続々と駆け足で本館正面玄関前の前庭に集まり出した。

中にはすでに食堂で昼食を食べ始め、それを中断して来た者もあった。

彼らの中では、「暴徒が乱入して、人が斬られた」「総監が人質に取られた」「赤軍派が来たんじゃないか」「三島由紀夫もいるのか」などと情報が錯綜していた。

11時55分頃、鉢巻に白手袋を着けた森田必勝と小川正洋が、「檄」を多数撒布し、要求項目を墨書きした垂れ幕を総監室前バルコニー上から垂らした。

自衛官2人がジャンプして垂れ幕を引きずり下そうとしたが、届かなかった。

前庭には、ジュラルミンの盾を持った機動隊員や、新聞社やテレビなど報道陣の車も集まっていた。

なお当日、総監部から約50メートルしか離れていない市ヶ谷会館に例会に来ていた楯の会会員30名については、幕僚らは三島の要求を受け入れずに会館内に閉じ込める処置をし、警察の監視下に置かれて現場に召集させなかった。

不穏な状況を知って動揺する会員らと警察・自衛隊との間で小競り合いが起こり、ピストルで制止された。

正午を告げるサイレンが市ヶ谷駐屯地の上空に鳴り響き、太陽の光を浴びて光る日本刀・“関孫六”の抜身を右手に掲げた三島がバルコニーに立った。

日本刀が見えたのは一瞬のことだった。

三島の頭には、「七生報國」(七たび生まれ変わっても、朝敵を滅ぼし、国に報いるの意)と書かれた日の丸の鉢巻が巻かれていた。

右背後には同じ鉢巻の森田が仁王立ちし、正面を凝視していた。


「三島だ」「何だあれは」「ばかやろう」などと口々に声が上がる中、三島は集合した自衛官たちに向かい、白い手袋の拳を振り上げて絶叫しながら演説を始めた。

〈日本を守る〉ための〈健軍の本義〉に立ち返れという憲法改正の決起を促す演説で、主旨は撒布された「檄」とほぼ同じ内容であった。

上空には、早くも異変を聞きつけたマスコミのヘリコプターが騒音を出し、何台も旋回していた。

『おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略)
おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。 — 三島由紀夫、バルコニーにて』

自衛官たちは一斉に、「聞こえねえぞ」「引っ込め」「下に降りてきてしゃべれ」「おまえなんかに何が解るんだ」「ばかやろう」と激しい怒号を飛ばした。



「われわれの仲間を傷つけたのは、どうした訳だ」と野次が飛ぶと、すかさず三島はそれに答えて、「抵抗したからだ」と凄まじい気迫でやり返した。

その場にいたK陸曹は、うるさい野次に舌打ちし、「絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした」「ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に理解した」と後に語り、いったん号令をかけて集合させたなら、きちんと部隊別に整列して聴くべきだったのではないかとしている。

三島は、〈諸君の中に一人でもおれと一緒に起つ奴はいないのか〉と叫び、10秒ほど沈黙して待ったが、相変わらず自衛官らは、「気狂い」「そんなのいるもんか」と罵声を浴びせた。

予想を越えた怒号の激しさやヘリコプターの騒音で、演説は予定時間よりもかなり少なく、わずか10分ほどで切り上げられた。

三島が演説を早めに切り上げたのは、機動隊が一階に突入したのを見たからだとも推測されている。


演説を終えた三島は、最後に森田と共に皇居に向って、〈天皇陛下万歳!〉を三唱した。その時も、「ひきずり降ろせ」「銃で撃て」などの野次で、ほとんども聞き取れないほどだった。

この日、第32普通科連隊は100名ほどの留守部隊を残して、900名の精鋭部隊は東富士演習場に出かけて留守であった。

三島は、森田の情報で連隊長だけが留守だと勘違いしていた。

バルコニー前に集まっていた自衛官たちは通信、資材、補給などの、現職においてはどちらかといえば三島の想定した「武士」ではない隊員らであった。

三島は神風連の精神性に少しでも近づくことに重きを置いて、マイクを使用していなかった。

マイクや拡声器を使わずに、あくまでも雄叫びの肉声にこだわった。


12時10分頃、森田と共にバルコニーから総監室に戻った三島は、誰に言うともなく、「20分くらい話したんだな、あれでは聞こえなかったな」とつぶやいた。

そして益田総監の前に立ち、「総監には、恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためです。こうするより仕方なかったのです」と話しかけ、制服のボタンを外した。

三島は、小賀が総監に当てていた短刀を森田の手から受け取り、代わりに抜身の日本刀・関孫六を森田に渡した。

そして、総監から約3メートル離れた赤絨毯の上で上半身裸になった三島は、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、森田に、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。

割腹した血で、“武”と指で色紙に書くことになっていたため、小賀は色紙を差し出したが、三島は「もう、いいよ」と言って淋しく笑い、右腕につけていた高級腕時計を、「小賀、これをお前にやるよ」と渡した。

そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤアッ」と両手で左脇腹に短刀を突き立て、右へ真一文字作法で切腹した。

左後方に立った介錯人の森田は、次に自身の切腹を控えていたためか、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。



まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。

総監は、「やめなさい」「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。

介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。

最後に小賀が、三島の握っていた短刀で首の皮を胴体から切り離したその間小川は、三島らの自決が自衛官らに邪魔されないように正面入口付近で見張りをしていた。

続いて森田も上着を脱ぎ、三島の遺体と隣り合う位置に正座して切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。

三島由紀夫の死を賭して行った檄文は今尚生き続け、平和ボケした日本に問いかけている。

いいなと思ったら応援しよう!