エースパイロット 檜 與平陸軍少佐の証言 一式戦・隼を語る

檜 與平(1920年 - 1991年)は、日本の陸軍軍人。戦闘機操縦者。
最終階級は陸軍少佐。徳島県出身。

戦隊長・加藤建夫中佐の下、加藤隼戦闘隊として有名な日本陸軍飛行第64戦隊の隊員を務めた経歴を持ち、敵戦闘機との空戦によって右脚を切断されるが、義足を付けて戦列に復帰した“義足のエース”“鉄脚のエース”“隻脚のエース”として知られる。

1943年(昭和18年)11月25日に一式戦闘機「隼」二型に搭乗している時、日本軍として初めてアメリカ軍のP-51マスタング(陸軍航空軍第311戦闘爆撃機群所属、ハリー・ミルトン(Hally Milton)大佐機、B型またはC型)を撃墜したとされるパイロットである。

航空自衛隊入間基地内の修武台記念館には檜の使用した義足が展示されている。

公的な最終撃墜数は12機。

一式戦闘機は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機。キ番号(試作名称)はキ43。

愛称は隼。

呼称・略称は一式戦、一戦、ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。

開発は中島飛行機、製造は中島および立川飛行機。

四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、大東亜戦争における事実上の主力機として運用された。

総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍の零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位。

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戦車兵
チップありがとうございます!!無理なさらず御覧頂けたら幸いです。