札幌散歩「タコの慰霊碑」
札幌には負の歴史も多々ある。
開拓の歴史から近代のそう昔でもない時代まで・・・・。
タコの慰霊碑とは「蛸」でも「凧」でもない「タコ部屋」の「タコ」だ。
このような似たところに私も若い頃・・・・・某組織はタコ部屋だったのでは?と今更ながらに思う。
タコ部屋労働は、主に昭和中期に北海道の非人間的環境下で労働者を身体的に監禁・拘束して行われた過酷な肉体労働である。
タコ労働とも呼ばれる。
一種の強制労働であるタコ部屋労働は、日本では労働基準法第5条により禁止されている。
また労働で使役された労働者をタコと呼び、タコたちのいわゆる土工部屋はタコ部屋・監獄部屋・人夫部屋とも呼ぶ。
語源については下記の説が語られているが、いずれの説も確実なものではない。
一旦岩に吸い付くと死ぬまで離れないタコ(蛸)のように、土工夫もタコ部屋に入ると必死で労働するから。
自らの足を最後の食料とするタコのように前借り金を負った土工夫も代償として自らの肉体と労働力を切り売りするから。
東北地方北部を中心とした他の地域の労働者が、斡旋業者の甘い言葉に乗せられて他人に雇用されるから(他雇)。
労働者が糸の切れたタコ(凧)のように逃亡するから。
タコ壺のような狭い部屋に押し込められるから。
裸同然で働かされてタコのように全身が赤く見えたから。
等がある。
明治維新後に開拓が始まった北海道で行われていた囚人労働を起源とする。
明治20年代では道路、鉄道建設に必要な屯田兵の労働力が不足し、空知の樺戸集治監や北見の釧路集治監網走分監(後の網走刑務所)などの集治監に収監されている受刑者が従事させられた。
囚人たちが建設に従事させられた。
綱でつながれた囚徒の足には鉄鎖と鉄球がつけられ、冬の豪雪の中でも道路や鉄道の建設、鉱山開発などが行われた。
逃亡を図り発見された者は見せしめのためにリンチされた。
起居する粗末な小屋の出入口には鍵がかけられ、逃亡監視のための監視者が置かれた。
枕は丸太が一本渡されたもので、起床時には監視員が端を叩く。
この苛酷な囚人労働で死者が続出し、囚人虐待であると批判する意見が出たため、1894年(明治27年)を最後に廃止された。
国による施工だけでなく、委託された民間業者は道外も含めて労働者を確保したが、それでも明治30年代以降の北海道における旺盛な土木事業の実施と、慢性的な労働力不足が生じる。
そして囚人労働にかわって登場したのが、本州方面から連れて来た労働者を、山間部や奥地の土工部屋に収容し、道路開削・鉄道建設・河川改修といったさまざまな土木事業に半強制的に駆り立てるいわゆる土工部屋のタコ労働である。
1890年(明治23年)に着工された北海道炭鉱鉄道株式会社室蘭線の建設工事でその萌芽がみられたといわれており、その労働の内容は従来の囚人労働と大差ない過酷なものであった。
以降、1910年(明治43年)の北海道第一期拓殖計画、1927年(昭和2年)の北海道第二期拓殖計画では「北海の地獄部屋」などとよばれながらも昭和22年4月労働基準法公布まで存続する(昭和21年8月 定山渓鉄道 真駒内停車場内 進駐軍キャンプクロフォード関係工事の記録にもある。)
管理人である親方を最高責任者とし、その下に世話役、帳場、棒頭(ぼうがしら)、取締人という労務管理機構組織が発達した。
工事現場の移転が便利なように、荒削りの松丸太を構造材として柾(薄く割った板)やシラカバの皮で屋根を葺いた天井の無い木造平屋の簡素な建築で、正面の土間を挟んでタコと呼ばれる労働者が生活する部屋と、帳場・日用品販売を行う売店・親方の部屋などが配置されていた。
武者窓の小窓以外には、銭湯でみられる番台のようなもので不寝番の見張りが鈴のついた引戸を監視し、逃走防止のために外側から施錠した。
採光や通気が不十分で、薄暗く陰湿な雰囲気を漂わせるこの標準的な土工部屋には70人前後の労働者を収容していた。
1932年(昭和7年)の北海道土工殖民協会設立以後、土工夫を収容したいわゆる土工部屋は大きく2つに分かれていた。
一つは自らの意思で土工夫となった信用人夫を収容した「信用部屋」である。
その一方で多くを占めた「タコ部屋」では、「ポン引き」とよばれる募集屋や斡旋屋に集められた労働者(タコ)が、多額の前借り金や募集費の経費回収の意味もあって、契約期間である6か月程度は常に拘束され、不法監禁や暴行、酷使、虐待が日常的に発生していた。
また、古くから上飯台(うわはんだい)、中飯台、下飯台とよばれた非公式的組織もあった。
別室で座食する上飯台は棒頭以上のものが属し、一般のタコは立食である下飯台という立場におかれており、模範的なタコは中飯台(腰掛食)に昇進できたとされる。
冬期間は厳寒な気候によって工事ができない北海道は3〜6か月の契約である場合がほとんどであり、早朝から夜遅くまで体罰を伴う重労働を強いる工事現場が主体であった。
給与は日給制だったが、斡旋業者に半ば人身売買のように売られて低賃金で酷使される労働者は、飲食代を徴収され、身の回りの物もすべてタコ部屋で調達せざるを得なかったためにその低賃金すら残らなかったという。
また脱走者は見せしめとして、裸で縛り上げて棒で殴られたり、縛り上げたまま戸外に放置して、蚊やアブに襲わせるなどの凄惨な拷問を受けた。
北海道内から集められた労働者の労働条件は比較的良好とされるが、それでも粗末な食事(特に副食が不足した)を立ったまま摂らされたり、不衛生な環境にもかかわらず、施錠されるため外出不可能だったために健康を損なって脚気や労咳が蔓延しやすく度々集団感染が発生していた。
このあまりにひどい仕打ちに、官憲の見回り時を狙って目前で殺人未遂などを引き起こし、自ら刑務所へ連行するよう訴える者すら現れる有様であったともいわれる。
こうして多くの命が失われ、その遺体遺棄されることが多かった。
タコ部屋自体が山中の人跡未踏の地にあることが多く、運良く脱走に成功しても、山中での遭難等で命を落とすことも少なくなかったようである。
しかし、部屋労働者への差別感情が根強く、一般社会に戻れば食事にすら事欠く貧困が待っている時代でもあり、一度は去った者の多くが再びタコ部屋に戻っていったともいわれる。
一方、これほどの収奪を行ってもタコ部屋業者の利益は少なかった。
タコ部屋を管理していたのは下請け業者であり、談合や中間搾取などにより、元請業者を通じて政治家に政治献金として利益の多くを吸い取られたためという。
多額の政治献金を行っている元請業者や地域の有力者、ピンハネをしているヤクザなどがタコ部屋労働の上部構造として存在したことも、その根絶を妨げる一つの原因であったと言われている。
昭和の戦後の時代までこのようなタコ部屋が現実にあった。
いや・・・今だって・・・・某組織が似たような・・・。
なんか・・・・昭和時代の冷戦期の某組織のようで・・・私も似たような経験しているな・・・・・・って思った。
そうか・・・・私が居たところも一種のタコ部屋だったんだ。
労働基準法と無関係な組織は結局、こういう組織になる。
もちろん形も目的も違うけれど、私の居た組織も逃亡する奴、自殺する奴はいっぱいたからね。
職場に「監禁」され自由を奪い、外出も自由じゃないし俸給も管理されたり先輩に強制的に「貸せ」と奪われたり盗まれたり・・・・仕事で使うものも経費で落ちるものなのに自腹で買うのが当たり前で・・・・タコ部屋そのものだ。
だいたい逃げる者がいて「捜索」して捜索経費を逃げた者に負わせる組織なんて他にないよな・・・囚人じゃないんだから。
「裸で縛り上げて棒で殴られたり、縛り上げたまま戸外に放置して、蚊やアブに襲わせるなどの凄惨な拷問」これやられた・・・全裸で木に縛られてホルモンの汁を身体に塗られて・・・・タコ部屋の拷問そのものじゃないか・・・。
その組織の名は絶対に書かないけれど、やばいよね。