ハイデガーとエピクロス(一回的な死について)
「死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである」
エピクロス(1959)『エピクロス 教説と手紙』p67
以下引用。
>>エピクロスは、「死につつある人」は、その生のある限り「現在的な」あらゆる善きものを求めるべきであって、決して死を予期・予測することで、自分自身を苦しめてはならないと言う。確かに、そのとおりで、魂の平静を得ることができるならば、死は単なる通過点としてその人に訪れるに過ぎないことになる。多くの人々は「安らかな死」を迎えるであろう。ここに何も問題はないように思われる。エピクロスはこう言ったという。「愛する人よ、帆を上げて、すべての教養を逃れて進みなさい。」(前掲三浦訳)死が生に張り付いている、あるいは、死が生を一回的で唯一のものに限定しているからこそ、生の意味が輝いて見えるのだと教えた。
一回的な死で生命が終了するということは、ハイデガー氏も考えていたことがらであろう。
一回的な死へ向かって突き進むからこそ今が開示され、本来的な生き方ができる。
不安や恐れの区別としては、不安には対象がない場合があるということであり、恐れは対象を持つ。
不安によって私たちは生き方や考え方を見出そうとする。どうすれば人生は上手くいくか?と良心の呼び声に耳を傾ければ……。
良心の呼び声を丁寧に聴いて、自分の本来的な自己に回帰することが賢明である。
死は体験できない、とエピクロスは考える。死がやってくる頃には私たちはいないという。