百八つ

 大みそかと言えば、除夜の鐘を一度だけつきにいったことを思い出す。あの年はひとりきりの年末年始だったから、真夜中にお寺で整理券をもらい、初めて鐘をついた。十一時四十分くらいから始めたので、年越しまでに終わるのかと心配したが、案の定住職が「巻いて!」と言うので笑ってしまった。鐘撞は案外難しく、それでもうまく響かせることができた。
 作法的にお詣りは除夜の鐘をついたあと、と何かで見たので、帰り際に本堂にお詣りした。あちこちに残るお寺が今でも機能している土地柄で、除夜の鐘もあらゆる方向から響いていた。昨今、除夜の鐘は騒音だと苦情が来るので廃止するお寺も多いとニュースで聞いたが、その土地では縁のない話だった。
 歩いて家に帰る途中に年が変わった。その途端人々は氏子になっている神社へ向かっていき初詣をするのだ。その切り替わりも面白く、境内で焚火をして暖を取りながら集う人々がいることにも驚いたし、日付が変わったらすぐ真夜中でも初詣をする習慣も初めて見る光景だった。つられるように氏子でもないけれど初詣をした。

 この先の人生でもうそんな大みそかはないだろうと思う。自分の体質に夜更かしはあまりよろしくない。だからあの年にひとりきりでも勇気を出して、しかも思い入れのあるお寺で、煩悩消えてくださいなどと念じながら除夜の鐘をついておいて、良かったと思うのだ。その経験をしておいて、良かった、と。
 ただ消えないのが煩悩とのことなので、今でも百八つはわたしの中に残って消えはしていないようだ。百八つは根深いらしい。除夜の鐘に限らず何か特別な時間を、まだまだ味わって生きたいと思う、煩悩は消えない。