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ふたかみのヒストリア——大津皇子・中将姫と『死者の書』

あまつ かぜ ふき の すさみ に ふたがみ の
を さへ みね さへ かつらぎ の くも

会津八一『南京新唱』(七七)二上山をのぞみて

はじめに

 大和と河内の境にまたがる二上山は、大和平野の西の中央に位置する。東の三輪山、巻向山と相対になっている。北方の雄岳、南方の雌岳のあいだに陽が沈むことから、西方にあるという極楽浄土の入口とされてきた。東の麓にある當麻寺の信仰は、この考え方に基く。雄岳山頂には葛木二上神社と、楠木正成が築いたとされる二上山城があり、二の丸の付近には、天武天皇の皇子である大津皇子の御墓がある。

 記紀において二上山は「大坂」「大坂山」とも呼ばれ、『日本書紀』では崇神天皇に大坂神を二上山に祀れとの託宣が降りたという記述や、仁徳天皇の皇子である住吉仲皇子の反乱の記述に登場している。また二上山周辺は、海の玄関口である大坂と政治の中心となる飛鳥を結ぶ交通の要所であり、日本最古の官道の竹内街道が、二上山の南に作られた。

 大和平野は、奈良県のわずか十二パーセントに過ぎない。地平線は見えず、四方を山に囲まれている。その中でも二上山は、わが家から最も近い場所にあり、僕の心を幼少より占めてきた。伸びやかな起伏は、見上げれば何時でもすぐそこにあり、古代の記憶に想いを馳せると、霊妙な気分にさせられるのであった。

詩賦の人・大津皇子と大伯皇女のヒストリア

・大津皇子の辞世

 『日本書紀』持統天皇御紀にいわく、天武天皇が崩御された朱鳥元年(西暦六八六)、大津皇子は謀反の意ありとして捕えられ、翌日十月三日、死を賜った。妃の山辺皇女は髪を振り乱しながら、裸足で駆けてゆき、殉死したという。現存するわが国の最古の漢詩集『懐風藻』は、皇子のお人柄を、次のように伝えている。

状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性すこぶる放蕩にして、法度に拘わらず、節を降して士を礼す。これによりて人多く付託す

 詩賦の興(おこ)りの始まりとされた皇子の漢詩は、『懐風藻』に四首収められた。中でも次の辞世の作は高名である。

金(くがね)の烏は西舎に臨み
鼓の声は短命を催す
泉路に賓主無し
此の夕(ゆうべ)家を離れて向ふ

カッコ内はルビ

 「金の烏」は日輪、「鼓の音」は時を告げる太鼓の音のこと。死出の旅路では客も主人もなくただ一人だ、この夕べに家を離れ、私は向かう——このような意味である。雌雄二峰のあいだに沈みゆく夕日の先に皇子は旅立たれたのだと、これを読んだ古の人々は空想したのだろうか。

 皇子は辞世の和歌も詠まれており、「大津皇子、死をたまはりし時、盤余(いはれ)の池の堤にて涙を流して作らす歌一首」との題詞が、『万葉集』では付されている。

角障(つぬさは)ふ盤余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠(くもがく)りなむ

万葉集三ノ巻、カッコ内はルビ

 皇子の深い寂寥が伝わってくる名歌である。どことなく懐かしさを思わせる情景が眼前に広がっているにも関わらず、作者はそこから遠く隔てられ、いずこかへ天翔けてゆく道しか、もはや残されていない。古代、鳥は死者の魂を運ぶものとされていたが、鴨は皇子の魂の片割れのようにも思われてくる。これを詠む皇子の片足は幽界(かくりよ)に踏み込んでおり、そのような境域から、こちら側の世界を見ておられたのであろうか。

 保田與重郎『わが萬葉集』では、本文の「百伝」の箇所を「角障」の写し間違いとする本居宣長の説に従い、上のように記している。「「角障ふ」は「盤余」の枕詞だが、「百伝」をモモツタフと訓んでも意味がわからぬとの理由からである」という。盤余池が由緒ある場所であったという話は聞いたことがなく、「百伝ふ」とすることでその永遠性を暗示しているとの評も、無理があるように思われる。

・大津皇子を偲ぶ大伯皇女

 大津皇子には大伯皇女(おほくのひめみこ)という同胞の御姉がおられた。『万葉集』を彩る、名歌人のお一人である。皇女は天武天皇二年(西暦六七三)、伊勢斎王として泊瀬斎宮に入斎院される。当初十四歳であらせられた皇女は、ここで一年六ヶ月の時を過ごし、禊斎された。『わが萬葉集』によると、泊瀬斎宮は「泊瀬川の川上にて、長谷寺より一里余り上流の小夫(ヲウブ)」にあったと伝えられていたようである。そして天武天皇三年、皇女は伊勢国へ下向される。

 神人分離以前、天照大神は宮中にて祀られていた。ところが、国内情勢の混乱を鎮めるべく、崇神天皇は皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に命じられ、大和の笠縫邑(かさぬいむら)に祀らせる。同床共殿の喪失とともに生まれた斎宮の慣習は、用明天皇朝以来途絶えていたが、天武天皇が制度化され復活したのだ。以後斎宮は、天皇の御代替わりのたび、新たに選ばれる。この制度はいくたびか途絶えながらも、南北朝まで続くことになる。

 大津皇子は果たして何をお考えだったのか、解明に至る道筋は暗闇に包まれている。『懐風藻』には、行心なる新羅の僧が皇子に逆謀を進めたと記されているが、仮に事実だとしても、事件の一側面にすぎないであろう。保田與重郎『萬葉集の精神——その成立と大伴家持』では、次のように述べられている。

 天平󠄁初年に於ける長屋王の場合も、王をさして正義派と申すだけではすまないであらう。さらに一步進んで、今まで覆󠄁はれてきた歷史の本流として考へるべきである。その先驅には大津皇子があつた。皇子の事件が、單に繼嗣問題にかゝはるのみと云ふなら、持統天皇の臨朝󠄁󠄁󠄁の政治的意義が解し難い。そして大津皇子と韓人僧との關係を重視する代りに、伊勢齋宮との關係の方こそ重視すべきである。さうして萬葉集はこの關係を言靈の風雅によつて說きあかしてゐるのである。

 『万葉集』の時代とは即ち、氏族制というある種の故郷が、蘇我氏の専横が象徴するように退廃し、官僚制的・能力主義的な律令制に取って代わられ、喪失される時代であった——これは広義の「近代」の曙と言えよう。また政争をはじめとする、数々の国内不安の渦巻く時代でもあった。外来の文物による天平文化の花咲く水面下で、国ぶりの言葉の美しさを守るべく育まれたものこそ、「萬葉集の精神」だったのである。『わが萬葉集』で述べられている「萬葉集の成立が、家持卿及び彼に先行する大伴家の文壇を基盤としてつくられたといふこと」は、見逃せない重大な事実である。ちなみに太宰府を中心とする大伴家の文壇は、外つ国の文物を積極的に受け容れた教養人によるサロンであり、山上憶良もその一員であった。つまり大伴家は、単純な排外主義ではなかったのだ。大津皇子の事件も、以上のような歴史背景に沿って考えられるべきであろう。

 『万葉集』によると皇子は事件の直前、姉の大伯皇女にお会いするため、ひそかに伊勢神宮に下向されていた。この時に皇女の詠まれた歌が以下の二首である。

・わが背子を大和に遣るとさ夜深けて 暁(あかとき)露にわが立ち濡れし
・二人行けど行(ゆ)き過ぎがたき秋山を いかにか君が独り越ゆらむ

万葉集二ノ巻、カッコ内はルビ

 第一首の大意。弟を大和へやってしまうのを見送ろうとしていると、夜も更け、明け方の露に濡れてしまった。
 第二首。二人で行っても越えがたい秋の山を、どのようにしてあの人は、ひとりで越えていくのだろう。

 皇女が皇子の相談を受け、目前に迫っている運命を暗示されていたと想像するのは容易い。相手の無事を祈る作者の思いは、切実の一言に尽きる。どちらも女性らしい繊細さに溢れる名歌と言えよう。それにしても一首目はまるで恋の歌である、久松潜一『万葉秀歌』によると、お二人が実際に恋愛関係だったとの説まであるという。

 持統天皇御紀によれば、朱鳥元年十一月十六日、皇女は都に還られた。先に述べた通り、御代替わりによるものであり、皇子が亡くなられたからではない。以下の二首は、大伯皇女が帰京の途上で詠まれた歌である。

・神風の伊勢の国にもあらましを なにしか来けむ君もあらなくに
・見まく欲(ほ)りわがする君もあらなくに なにしか来けむ馬疲るるに

万葉集二ノ巻、カッコ内はルビ

 第一首の大意。こんなことならいっそ、神風吹く伊勢の国に居ればよかった。どうしてやって来たのだろう、あの方もいらっしゃらないのに。
 第二首。逢いたいと思うあの方ももうおいででないのに、どうしてやって来たのだろう。馬も疲れるばかりなのに。

 帰京のわけはあくまで御代替わりであるから、「伊勢の国にもあらましを」というのは理屈に合わない。ただしこれは言葉のあやであって、皇女はお悲しみのあまり、あえてこう詠まざるを得なかったのだ。山本健吉『万葉秀歌鑑賞』の言うように「親しい弟がもういないのだから、せっかく還る甲斐がない」のである。この二首は素朴でありながら、作者の詠嘆が、打ち寄せる波のように少しずつ姿を変え、読者の胸を打つ。

 大津皇子と大伯皇女の物語は、二上山に移葬されたときに皇女が詠まれた、以下の二首によって締めくくられる。なお、最初の御墓の地は不明。前の二首が冬である一方、こちらの季節は春である。

・うつそみの人なる我や明日よりは 二上山を弟(いろせ)と我(あ)が見む
・磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありと言はなくに

万葉集二ノ巻、カッコ内はルビ

 第一首の大意。この世の人である私は、明日から、二上山を親しい弟と思い、眺めていよう。
 第二首。岩のほとりに咲く馬酔木を手折ろうとするけれども、その花をお見せするお方は、もういらっしゃらないのに。

 一首目の語は簡明であるにも関わらず、深い悲しみの余韻に満ち満ちているのには驚かされる。柔らかい音で詠まれていることもあり、まるで包みこむような穏やかな調べである。『わが萬葉集』ではこれに付随して、「うつせみの世の事なれば外(ヨソ)に見し山をや今はよすかと思はむ」という、天平十六年に詠まれた三ノ巻の歌を挙げ、「この「うつせみの世の事なれば」は、天平末期の読書人の気分的無常観念にて、皇女の御歌の、心緒の流動の自然とは、質の異るものである」と指摘されている。仏教の無常観と結びつけるのは、慎重であるのに越したことはないだろう。ここで歌われているのは、輪廻と罪業に怯える卑小な人間の姿ではなく、雄岳雌岳の二峰のごとく伸びやかな、自然(かむながら)の心ではあるまいか。

 「磯の上に」の歌では、『古今集』の美学にも通ずるような、女性的な感情が歌われている。山本健吉はこれを、「なげき歌の調子」と評している。

・ヒストリアを保守せよ

 ここまで長々と、大津皇子の辞世の作と、大伯皇女との関係にまつわる歌を紹介してきたけれど、そのうちの幾つかは、ご本人によるものなのか、極めて疑わしい。

 奈良元興寺の僧釈智光が撰述した『浄名玄論略述』には、隋に滅ぼされた陳(ちん)の最後の皇帝陳後主(こうしゅ)の作に、「鼓声推命役、日光向西斜、黄泉無客主、今夜向誰家」とある。『浄名玄論略述』の成立は西暦七五〇年ごろであるから、大津皇子の辞世の漢詩は後世の創作とするのが定説である。「角障ふ」の歌に関しては、ご自分で「雲隠りなむ」とは詠まれないであろうし、山本健吉は、大伯皇女の「わが背子を」や「二人行けど」の歌、(長くなるため本稿では触れなかった)皇子と女流歌人石川郎女との相聞歌にも、疑いの目を向けている。

 では、これらの歌を発生せしめ、今日まで語り継がせた、無数の詠み人知らずの情念は何だったのか。それらの実態は、月の裏側のごとく荒涼たる虚無であり、「歴史」の名において追放されるべき妄念なのであろうか。そうではない。いわゆる実証史学は、精神史という言葉に秘められた深い含蓄を見落としているのだ。ヒストリー history とストーリー story はいずれも、古代ギリシャ語のヒストリア ἱστορία に由来する。ἱστορία は「探求して学んだ知識、探求、物語、歴史の説明」を意味する。歴史は、諸事件を収集するだけではなく、解釈を加え、その意味連関を探求することから生じるのである。現代を生きる我々は、名もなき古の人々の情念をも踏まえた上で、歴史を考えなくてはならぬ。生者の傲慢によって冒涜され、歪められることは、決してあってはならない。「調査」の名目を借りた墓荒らしなど、言語道断である。保田の語った、「病気の平癒から現世利益に及」(『わが萬葉集』)ぶ、天皇陵への信仰祈願の風習もまた、立派な歴史なのである。こうした民間信仰は、「明治初年の神武講社の流行から、橿原神宮建立の機縁とな」ったという。

當麻曼荼羅と中将姫のヒストリア

・當麻曼荼羅と中将姫説話の発生

 二上山の東の麓にある當麻寺は、この地の豪族葛城氏の一族である、当麻氏の氏寺として建てられたと推定されている。推古天皇二十年(西暦六一二)に創建されたというが、実際のところは定かではない。古代の寺院は南を正面とするのが常であったが、當麻寺は、沈みゆく夕陽を迎えいれるように、境内東端の東大門が正門となっている。

 當麻寺には、天平宝宇七年(西暦七六三)中将姫の手により一夜にして蓮糸で織り上げられたという、四メートル四方と巨大な根本曼荼羅がある。通称、當麻曼荼羅という。現在は當麻寺西南院(奈良国立博物館寄託)に所蔵されている。損傷の激しさのため、後の時代に転写され、建保曼荼羅(現存確認されず)、文亀曼荼羅、貞享曼荼羅が制作され、當麻曼荼羅という語は本来、これらも含めた総称として用いられる。

 のちに法然が開くことになる浄土宗とは異なり、阿弥陀仏を念ずることで、来世は極楽浄土に往生できるとする教えは、浄土教と呼ばれる。経典に説かれる浄土の姿を絵画、彫刻、芸能に昇華したものが浄土変である。當麻曼荼羅は、根本経典の一つである『無量寿経』を絵画とした浄土変なのである。

 昭和二十六年(西暦一九五一)、植物学者の大賀一郎の研究により、根本曼荼羅は蓮ではなく絹の糸で織られたことが分かった。この貴重な研究成果と、蓮糸で織られたという説話の精神史は両立する。説話という偏見 prejudice は、古の無数の人々による、予め pre の判断 judice であるから、荒唐無稽とは話がまったく異なるのである。

 僕は土俗を、美的観点からのみ肯定するのではない。国家や資本による画一化は、地方の多様性を奪っていく。国家と資本主義による近代社会を成立させる為であるが、それはやがて自己目的化し、歯止めが効かなくなっていく。すべては平板に没個性化され、システムへの依存度が増し、有機的な人間関係は失われる。中間共同体の危機は、社会全体の危機へと直結する。うしはくという意味での統治はあくまで、必要悪にすぎないが、愛国心の基礎たる愛郷心は徹底的に破壊され、統治を困難なものとする。肝心要の人間自身が、その生命力を失っていく。近代は前近代を、中央は地方を前提とする以上、人々の土俗との結びつきを無視して、持続可能な社会などというものは不可能なのである。わが先人たちは、土地の事物を雅びやかに歌いあげることにより、空間に象徴的な意味を与えてきた。そうして育まれるヒストリアは、先人と僕とを繋いでいる、そして両者と子々孫々をも繋ぐと信じている。時間に対する詩情と慣習の勝利であり、生活の知恵である。

 説話は、中将姫なる一人の信心深い女人が、曼荼羅を感得し、極楽往生を遂げるという霊験譚(れいげんたん)である。説話の変化と受容、民間信仰のあり方については、日沖敦子氏の著作『時空を翔ける中将姫 説話の近世的変容』に詳しい。同じく日沖氏の『当麻曼荼羅と中将姫』にも目を通したが、初めて触れる人には前者で十分かと思われる。

 平安末期に成立した古辞書『色葉字類抄(いろはじるいしょう)』には、當麻寺の記述があるものの、曼荼羅の由来には触れられていない。鎌倉時代になると、『建久御巡礼記』(建久三年〈西暦一一九二〉成立)には「ヨコハギノ大納言」の娘、『当麻寺流記(るき)』(寛喜三年〈西暦一二三一〉以前成立)には「横佩右大臣尹統息女字中将(よこはぎのうだいじんまさむねそくじょあざなちゅうじょう)」が、それぞれ曼荼羅を感得したと記されている。後者は前者よりも詳細な内容であり、十三世紀の文献はこれに影響を受けたものが多い。鎌倉光明寺蔵『當麻曼荼羅縁起』もそのうちの一つである。鎌倉時代の説話は「中将姫」とは呼ばず、「中将局」「字中将」「中将内侍」とさまざまな名称がある。

・當麻曼荼羅の鑑賞

 昭和八年(西暦一九三三)に発表された保田與重郎「當麻曼荼羅」は、既存の芸術批評に異を唱え、「作品と周圍世界」或いは歴史との関係を重視する方法論を唱える。當麻曼荼羅を鎌倉時代の成立と想定し、鎌倉の世情を背景とする「不安の芸術」として見なすのである。

 一方、保田の批判する和辻哲郎『古寺巡礼』では、「完全な享楽生活への憧憬」が読み取られ、次のように評されている。

 この極楽の風致は、徹頭徹尾人工的である。シナの暴王がその享楽のために造った楼閣や庭園は、まずこんなものだったろうという気もする。そこに釈尊の解脱を思わせる特殊なものは一つもない。すべての装飾がデカダンスを思わせるほどあくどく、すべての悦楽が感性の範囲をいでない。この画のうちのあらゆる弥陀像を暴王の像に画き換え、あらゆる菩薩を美女の像に画き換えても、何ら矛盾は起こらないであろう。このような幻想を 彼岸生活として持つものの永生の願望は、必竟現世を完全にして無限に延長しようとする に異ならない。しかもその現世の完成が、暴王の企てたところと方向を同じくする。物質的であって精神的でない。

 僕には二人の主張が、表裏一体のように感ぜられた。しかし終始否定的である和辻の批評よりも、曼荼羅に「急迫の不安」を見ようとする保田のそれに心惹かれる。保田は「知恩院の來迎の圖」に「つねならぬ時代の動き」を見ている。僕はこれと同じものを、曼荼羅に描かれている上空を舞う飛天たちに認めるのである。すると、愚にもつかぬ空想だけれども、中央の聖衆(しょうじゅ)が戦陣に座す武士の軍勢のように見えてくる。衆生の内なる不安と戦う、済度の軍勢である。

 保田は中世の不安と一九三〇年代当時のそれを重ねている。藤原定家の本歌取りの美学は、たびたびマラルメをはじめとする象徴主義に喩えられ、福田和也は、フランス王党派右翼の組織「アクション・フランセーズ」の中心人物シャルル・モーラスの古典主義との類似性を見ていた。なお福田によるとモーラスの古典主義は、マラルメを悩ませた、表現の不可能という問題への回答であった。既存の社会を成立せしめる論理が通用しなくなった二つの時代の共通性を、鋭敏に捉えた保田は慧眼である。

 ハイデガーが故郷喪失の語で論じた存在論的不安の感覚は、二十世紀を貫くものであった。新左翼は旧左翼と異なり虚無主義的な傾向を持っていたが、絓秀実氏は『革命的な、あまりに革命的な』において、一九三〇年代と「六八年」の類似性を詳細に論じている。

 この問題の解答を未だに見つけ出せない——仮にファシズムを肯定するなら話は別であるが——我々は、未だに「奇妙な廃墟」の中に生きている。僕は當麻曼荼羅を思いながら、わが心に穿たれたこの空洞をいかなる形で表現しようかと考えるのである。

・中将姫説話の発展と受容

 室町時代になると、説話は今日広く知られる継子物の形になり、「中将姫」がひばり山に遺棄される場面が生まれ、定着する。永享八年(西暦一四三六)、浄土宗鎮西派の僧の酉誉聖聡(ゆうよしょうそう)によって記された『當麻曼陀羅疏』四十八巻は、当時流布していた内容のうち、妥当としたものを集めたものだという。以下長くなるが、日沖敦子氏がまとめた『疏』巻七のあらすじを、『時空を翔ける中将姫』から引用する。

 横佩右大臣豊成には子供がなかったため、 長谷寺の観音に願ったところ、夢のお告げがあって一子を授かる。
 姫が三歳の時に弟君が誕生するが、姫七歳の時に実母が病死し、左大臣諸房の娘が継母 となる。継母は姉弟を憎み、自ら武士に命じて葛城山の地獄谷に二人を捨てさせる。しかし兄弟は命をながらえ、やがて帝が二人を助けて宮中に迎え入れる。帝は姉を中将内侍に、弟を少将に任じた。姫は信心深く、亡母の菩提を祈りつつ『称讃浄土経』一千巻を書経するほどだった。
 この一連の出来事を不快に思った継母は、実母の墓参りを口実に姫を宮中から連れ出し、再び紀州の雲雀(ひばり)山へ連行し武士に殺させようとする。しかし、姫は武士夫婦の情けによって助けられ、夫婦と共に山中で生活するようになる。その後、武士が亡くなり、姫と武士の妻は山へ狩りに来ていた父豊成に発見され、内裏へ迎えられる。
 姫の弟の少将は十四歳で亡くなり、姫は世の無常を感じる。姫は出家への思いがいっそう募り、出家の前に『称讃浄土経』一千巻を書経し、当麻寺に入る。生身(しょうじん)の阿弥陀如来を拝みたいと願う姫のもとに尼が現れる。蓮糸を集めさせ、化女(観音の化身)がその蓮糸で浄土曼荼羅を織り上げた。尼は浄土の世界を描いたその曼荼羅を前に説法を行い、四句の偈(げ、引用者註:詩句の形式をとり、教理や仏・菩薩の徳を称える韻文)を残して去っていった。その十余年後、姫は宿願の通り往生を遂げた。

カッコ内はルビおよび引用者註、「化女」のものは本文ママ

 『源氏』宇治十帖の中世風な換骨奪胎、といった感がある。ちなみにあの『落窪物語』も同様に継子譚である。白鳳天平の信仰が現世的であったのに対し、王朝時代と中世を繋ぐエリジウム思想が物語を貫いている(東大寺は華厳宗の大本山であるが、中村元によると華厳とは、「いろとりどりの華によって厳(かざ)られたもの(雑華厳飾)」の意であり、その言葉通り、現世を美しく飾り立てる教えである)。そして場面が次々に移り変わってゆくさまに僕は、中世の戦乱の面影を読み取るのである。

 形式を洗練させ、「受難と救済の物語」へと昇華させた『疏』は、以降展開されてゆく中将姫説話に、大きな影響を与える。謡曲『當麻(たえま)』や『雲雀山』では、『疏』を本説(ほんぜつ)、つまり典拠として作られた。享禄四年(西暦一五三一)には、現在も當麻寺に蔵されている絵巻『當麻寺縁起』三巻が制作される。『當麻寺縁起』では雲雀山ではなく、宇陀の日張山と伝えられている。ひばり山の名は様々に変化して記され、資料によって違うようである。継子譚としての中将姫説話は、お伽草子の絵巻や奈良絵本(室町後期から江戸中期にかけて制作された、彩色絵入りの写本)、掛幅絵としても広く受け容れられていく。

 江戸時代には、お家騒動や儒教的な価値観、勧善懲悪の要素などが反映され、浄瑠璃や歌舞伎の題材となった。元禄九年(西暦一六九六)、大坂の竹本座にて、近松門左衛門作『當麻中将姫』初演。元文五年(西暦一七四〇)に大坂の豊竹座で初演された、並木宗輔(そうすけ)作『鶊山姫捨松』は、『當麻中将姫』を改作したものと考えられている、お家騒動ものである。継母が中将姫を雪の中責めつける場面が有名になり、現在ではこの段だけの上演が通例になっているという。江戸時代において、中将姫説話は原型をとどめないまでに、娯楽として受容されたにも関わらず、中将姫や當麻曼荼羅への信仰心が喚起されていったというのだから面白い。十七世紀以降、中将姫自身が広く信仰されるようになり、物語や説話では、しばしば登場する女性に中将姫のイメージが重ねられた。

 本来、當麻寺の由緒を紹介するだけの役割に過ぎなかった説話は、先ほど紹介した『疏』をはじめ、姫の生涯を概観する一代記へと変質していった。説話、物語、絵画などがこの傾向を保持する一方、演劇はその他の様々な要素が加えられていった。その他、説話の受容について、他にも様々な観点から語ることができるけれども、長くなるのでこの程度に留めておこう。

 江戸期の大胆な換骨奪胎を思うと、自分にも同じようなことはできないだろうか、という欲望に駆られる。現代の風俗へ無理に古代を当てはめようとすれば、滑稽になること必至である。ならば江戸が、この両者をなだらかに結びつける、優れた補助線になるのではなかろうか。

 僕が気になったことをもう一つ挙げておくと、継母が蛇になる説話の存在である。役行者が開いたとも言われる當麻寺中之坊には、「中之坊絵伝」なる絵伝が所蔵されている。日沖氏の『当麻曼荼羅と中将姫』によると、近世末から明治期に制作された「中之坊絵伝」には、継母が蛇になる話が含まれている。「継母のその(引用者註:中将姫へのいじめ)後について詳述した中将姫説話は殆ど確認でき」ず、これは珍しい例である。さらに同じく継母が蛇となる話として、日沖氏は説経浄瑠璃『中将姫御本池』を挙げている。「蛇身となった継母は中将姫の説法を妨げようとするが、姫による法華経供養によって成仏する」といった内容だという。ここでは謠曲『道成寺』のように、蛇が本来の性格を失い、執心と迷妄の象徴として描かれている。

釈迢空『死者の書』のヒストリア

・折口信夫/釈迢空と僕

 折口信夫は柳田國男、宮本常一と並び、多大な業績を残した民俗学者である。古典への深い造詣と抜群の詩人的直感を駆使し、独自の学説を発表し続けた。師の柳田とまったく異なる、非科学的な方法論に賛否あれど、折口学の主要概念である「まれびと」をはじめ、広く受け容れられている。

 折口は釈迢空と号し、この名で短歌や詩を詠み、小説を書いた。「葛の花 踏みしだかれて、色あたらし。この山道を行きし人あり」。処女歌集『海やまのあひだ』の有名な一首である。

 上野誠氏の『折口信夫 魂の古代学』によると、大阪に生まれた折口は「自ら生活を楽しむ享楽的な大阪の女の家の文化」に触れ、この経験が、彼の芸能論をはじめとする学説に影響を与えているのだという。また折口は自分の顔の青痣にコンプレックスを抱き、家族に疎外感を感じていた。中学時代に自殺未遂、大和に旅行した際、室生寺奥の院で自殺を図った若き日の国学者契沖に共感、死への誘惑に駆られていたという。彼の新聞小説『口ぶえ』には、当時の経験が反映されているようだ。

 小説の内容がどのような作者の経験に基づくのか、などという下世話な詮索自体にはさほど意義を感じないし、興味がない。僕が述べたいのは、折口の大阪の商家との関係や、古代の大和への憧憬といった点に深い共感を覚える、ということである。僕の祖母は大阪で商いをしており、母は小さい頃から店の手伝いをしていたという。そして父と結婚、一人息子の僕を授かると、ちょうど二歳になる時、四人で奈良へ越してきたのである。

 小さい頃、両親に連れられて、『死者の書』の映画を観に行ったことがある。恐らく、川本喜八郎監督によるものであろう。むろん内容はすっかり忘れていたが、映画を観たということ、幽暗な雰囲気の作品であったことは、確かに覚えていた。幼少の頃からこのような経験をさせてもらっていたことを、とてもありがたく思う。

・『死者の書』の雑感

 長編小説『死者の書』は昭和十四年(西暦一九三九)に発表された。タイトルは、死者が冥界を通過する際の注意点や、魂の個々の要素を保存・保護する方法などを記した、古代エジプトの書から取られている。大筋は藤原南家の郎女が當麻寺を訪れてから、曼荼羅を織るまでの始終だが、ここに「滋賀津彦」こと大津皇子が関係してくるフィクションとなっている。神隠しにあったと噂される郎女の魂に呼びかける、「こう こう こう」という修験者の一行の声に、滋賀津彦の霊が「おおう……」と応えるのである。

 物語は、夢幻能の形式を思わせる、滋賀津彦の目覚めの場面から始まる。

彼の人の眠りは、徐かに覺めて行つた。まつ黒い夜の中に、更に冷え壓するものゝ澱んでゐるなかに、目のあいて來るのを、覺えたのである。
した した した。耳に傳ふやうに來るのは、水の垂れる音か。たゞ凍りつくやうな暗闇の中で、おのづと睫と睫とが離れて來る。

 「した した した」というオノマトペが絶妙である。富岡多恵子『釋迢空ノート』によれば、狂言台本に見られる表現だという。一読して以来、僕の『死者の書』のイメージは、この一行が象徴するようになった。『死者の書』には、古典テクストと古典芸能への作者の深い理解が組み合わさり、古代の息吹きが見事に再現されている。

 『『死者の書』の謎——折口信夫とその時代』にて、鈴木貞美氏は「『死者の書』には、謀叛が満ちている」と指摘している。大津皇子が謀叛を図ったとして死を賜ったことは、既に述べた。作中に登場する當麻の語部の媼(おうな)は、「人の世になつても、氏貴い家々の娘御の閨の戸までも、忍びよる」好色の神「天若みこ」の正体を、「天の神々に弓引いた罪ある神」、「天若日子」だと語る。天若日子が「天の神々に弓引」く話は、記紀に見ることができる。

 媼は大津皇子と天若日子、そして隼別皇子を一つの魂と見ている。隼別皇子は応神天皇の皇子、仁徳天皇の異母弟である。仁徳天皇御紀には、天皇が後宮に入れ、妃としようと思われていた、雌鳥皇女(めとりのひめみこ)を密かに娶られたという記事がある。天皇が雌鳥皇女の寝所へ行かれたところ、皇女に仕える機織女らの歌を聴き、真相をお知りになったという。天皇は隼別皇子の舎人たちが詠んだ歌を聞いてお二人の叛意を確信、兵をお向けになる。この時お二人は伊勢神宮に逃れようとなされていたが、逃げ切ることはできず、兵に追いつかれ殺された。大津皇子と大伯皇女の物語を連想させる話である。

 また後半では、恵美押勝と大伴家持が出会い、会話をする場面がある。政治的な駆け引きを思わせる場面である。恵美押勝はのちに、孝謙上皇の寵愛を受けた道鏡を排そうと乱を起こし、敗れて一家ともども皆殺しとなる。家持は死後、藤原種継の暗殺事件の首謀者と目され、処罰された。埋葬を許されず、官籍から除名され、息子永主は隠岐へ流罪となった。名誉が回復されるのは約二十年後の大同元年(西暦八〇六)、平城天皇即位の年のことである。なぜかくも本書には、謀反の匂いが執拗に付きまとうのだろうか。

・大津皇子と蛇信仰

 奈良市西ノ京町にある、法相宗大本山の薬師寺には、鎌倉時代後期に作られた大津皇子坐像がある。昭和十二年(西暦一九三七)に発表された「大津皇子の像」は短いながらも、皇子の哀切な生涯を格調高く綴った、初期保田の名文であるが、彼の批評にしては珍しく付された註釈では、『藥師寺緣起』の皇子についての記述を引き、「大津皇子像が藥師寺に現存する根據とおぼしい說話はこれ以外に私は知らない」と述べている。訓点を付せられないことは悔やまれるが、興味深い内容のため、ここに孫引きする。

大津皇子
  持統天皇四年庚寅正月禁大津親王……云々
 今案、傳言、大津皇子厭世籠居不多神山、而依謀告、被禁掃守司藏七日矣、皇子急成惡龍騰
 虛吐毒、天下不靜、朝廷憂之、義淵僧正、皇子平󠄁生之師也、仍敕修圓、令呪惡靈、而忿
 氣未平󠄁、修圓仰空呼曰、一字千金、惡龍永諾、仍爲皇子建寺、名曰龍峯寺寺在葛下郡掃守
 寺是也、又七月廿三日、被賜宣旨於藥師寺、請定六十口僧差威從四人、七箇日之間、令轉讀大
 般若經也、其布施在信乃國也。

 大津皇子は悪龍と化し、毒を吐き天下を不安に陷れられた。皇子の平生の師の義淵僧正が祈祷し鎮めまつった。この時皇子のため「葛下郡掃守」に建てられたのが龍峯寺であり、また薬師寺でも大規模な供養を行ったのだという。

 また、當麻寺中之坊所蔵の「当麻寺付近絵図」には、二上山の雌岳に神蛇大王(竜王)を祭る社もあったことが記されており、現在は中之坊鎮守として遷座され、境内稲荷神社末社に竜王社の小祠となったとの伝承がある。もともとこの地方にあった蛇信仰が、大津皇子と結びついたのではないかと考えられる。

 二上山一帯には、岳(だけ)のぼりと称する伝統行事が伝わっている。二上山の水を農業に使う大和国側の「ダケ郷」の村人が、春に二上山に登り、神を迎えていたのだという。現在では清掃活動を兼ねたイベントとして時々開催されている。

 岳のぼりについては、上島秀友氏の『天の二上と太子の水辺』に詳しい。「嶽の権現さん、雨降ってたもれ」「嶽の権現さんは幟がお好き、幟持ってこい、雨降らす」と言いながら、のぼりや提灯をもって登拝、稲作りに必要な雨を願う。大和高田市域の築山村・神楽村からも徒歩で村人が往来した。「ダケ郷」とは「嶽郷四十八ヶ村」、すなわち明治二十二年の町村制施行後の村である二上村、下田村、五位堂村(以上香芝市)、當麻村、磐城村、新庄村(以上葛城市)、陵西村、浮孔村、高田村、磐園村、土庫村、松塚村(以上大和高田市)に含まれる四十八大字のことである。蛇は湿地帯にいることから、古来より水の信仰と結びつけて考えられてきた。「ダケ郷」の人々は、二上山の神が大物主のように蛇の姿で現れると考え、雨を乞うたのであろうか。

 中将姫の継母が蛇になる話、そして『藥師寺緣起』の皇子についての記述に僕は、中世における神々の悲しみを見る。八世紀になると、神々が世を厭い、神身からの離脱と三宝への帰依を欲するという話が生まれるようになった。土着の神々が仏法に救いを求める話は、古代の大陸においても見られ、仏教自体に内在されていた教説によるものであった。東大寺の盧遮那大仏の造立や、全国への国分寺、国分尼寺の建立とともにこの傾向は広まり、結果、神々は六道輪廻の中にある解脱していない存在、あるいは仏教を守護する護法神であるとする思想が定着したのであった。神仏習合はこのような文脈の延長線上にある。僕は廃仏毀釈を肯定しないが、背景には相応の事情があったのだ。

 近年アニミズムの定義を見直すポストモダン人類学が、日本で紹介されるようになっている。紹介だけに留まらず、日本におけるアニミズムのあり方を追い求める奥野克巳氏の仕事に僕は敬意を表するが、氏が仏教に肯定的である一方、神道に冷淡であるのは、その政治性ゆえであろうか。

 僕は仏教に、キリスト教とは異なる形の人間中心主義を見る。基本的に仏教とは、人間の智慧によって自然を超越し、その因果を見渡そうとする試みであるが、これが世界宗教となる時、土着の神を天部として仏法のもとに置く教説が生まれたと考えるのである。

・中将姫という「神の嫁」

 先ほど引用した『藥師寺緣起』の記述にある「葛下郡掃守」は、現在の葛城市加守にあたる。この地にある葛木倭文坐天羽雷命神社(かつらぎのしどりにますあめのはづちのみことじんじゃ)の裏手には、川村二郎『イロニアの大和』によると、「龍峯寺」の跡があるのだという。残念ながら僕はまだ訪れたことがない。アメノハヅチは機織りの祖神とされ、倭文(しどり)氏の遠祖でもある。

 さらに川村は、スサノヲが馬の皮を機屋に投げこみ、「機織女」が驚き、ホトを梭(ひ)で突いて死ぬ『古事記』の話と、天照大神自身が「梭を以て身を傷(いた)ましむ」『日本書紀』の話を挙げる。「機を織る女は男の暴力にさらされる。それが、記紀を通じての、原初の物語のモチーフ」なのだ。さらにお伽草子の『天稚彦草子』について、次のように言及する。

 御伽草子の『天稚彦草子』では、大蛇に求婚された少女が水に臨む御殿にひとり座って、蛇が来るのを待っている。コノハナサクヤヒメのように機を織っているわけではないが、この草子は『七夕の本地』とも呼ばれるように、その少女が艱難辛苦の末、タナバタツメ=織女となり、夫の蛇は彦星となる次第を語っている。

 大蛇に水。大津皇子を連想する話である。先ほど触れたように、『死者の書』の媼は大津皇子と天若日子を同一視していた。

 『『死者の書』の謎——折口信夫とその時代』は、棚機津女(たなばたつめ)に関する、二つの文章に触れている。一つは折口の愛弟子であった歌人、岡野弘彦氏の「折口信夫・人と作品」(『昭和文学全集4』西暦一九九五)。岡野氏は「神のために織った衣を着せて迎える役をつとめた。南家ノ郎女は奈良時代におけるたなばたつめである」と書く。もう一つは、折口の「たなばたと盆祭りと」(西暦一九三〇)である。「たなばたと盆祭りと」では、日本書紀の天孫降臨の章の、海の波の上に八尋(ヤヒロ)殿を建て玲瓏な布を織る二人の乙女に、天孫が誰の娘かと問う場面を引き、次のように述べられている。

我々の古代には、かうした少女が一人、或はそれを中心とした数人の少女が、夏秋交叉(ユキアヒ)の時期を、邑落離れた棚の上に隔離せられて、新に、海或は海に通ずる川から、来り臨む若神の為に、機を織つてゐたのであつた。

カッコ内はルビ

 折口は、もともと日本には、夏に乙女が若い神を迎える風習があったと考える。これと大陸の七夕伝説が習合し、現在のかたちになったというのだ。よって南家郎女は、まれびとを迎えるために機を織ったことになる。ここから僕は、神婚、人身御供という言葉を連想する。中山太郎『日本巫女史』第二篇第三章第五節は人身御供について、次のように述べている。

更に換言すれば、古代の女性はその悉くが殆んど巫女的生活を送っていたことは既述した。それと同時に、我国の巫女の起原が、此の家族的巫女にあることも、是れ又た既載した。而して後世の伝説ではあるが、神の使の標である白羽の矢が家の棟に立ち、その家の女子が、人身御供にあがるという思想の最初の相が、此の一夜妻であったのである。伝説の通俗化は、我国の「生贄」と、支那の「犠牲」とを混同させ、人身御供といえば、邪神か悪神のために、忽ち餌食として、取り殺されるように盲信させてしまったが、古き人身御供のうちには、単なる神寵であって一時的の神妻であり、神ノ采女に過ぎなかったものの在ることを知らねばならぬ。これが一夜妻の正しい解釈であって、然もこれを勤めたのが、私の謂うところの家族的巫女なのである。

 中山の主張に従うと、乙女を人身御供にとって食らう八岐大蛇と、奇しき稲田の姫神との婚姻を条件に大蛇を退治したスサノヲは、本来同じ性格ということになる。『日本巫女史』を踏まえた大和岩雄『遊女と天皇』は、遊女が元々は神妻たる巫女であり、高い身分と教養を有していたと論じる。やがて時代が下るにつれ、社会秩序にそぐわないという論理によって彼女らはかつての地位を失っていったのである。天照大神や新嘗祭を神妻と結びつけるのは無理があるように思われるが(岡田莊司氏の『大嘗祭と古代の祭祀』参照)、『遊女と天皇』の要旨は注目すべきものであろう。

 折口は『死者の書』についてのエッセイ「山越しの阿弥陀像の画因」において、「私の中将姫の事を書き出したのは、「神の嫁」という短篇未完のものがはじめである」と述べている。「神の嫁」では藤原豊成の娘、つまり南家郎女が、疫病を収めるため、人々の罪業を背負い自ら贄となろうとする。罪業を背負う、というのが重要である。天平が政争渦巻く、不安の時代であったことは既に述べた。鈴木貞美氏は『死者の書』の郎女に、権力をほしいままにした「藤原氏の罪業を一身に背負って機を織」る姿を見ている。

 川村二郎は「以下は論証を伴わぬ全くの空想である」と断り、二上山近辺の機織にまつわる記憶が中将姫説話として凝集し、これと悪龍と化した大津皇子との対応が『死者の書』に暗示されているのではないかと思索した。僕はこれを単なる空想とは思わぬ。姿はおぼろげながらも、確かにふたかみの地に息づく、古代の、そして近代のヒストリアではなかろうか。


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