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藤ノ木古墳の被葬者は誰か?ー「大和の大型横穴式石室の被葬者像にせまる」講演会&シンポジウムに行ってきました
先日、奈良県の斑鳩町で行われた「大和の大型横穴式石室の被葬者像にせまる」講演会&シンポジウムに行ってきました。
藤ノ木古墳発掘調査40周年プレイベントとのことです。
古墳に詳しいというわけでもなく、たまたま目にして参加してみたのですが、知らないことがたくさんあって興味深かったです。
せっかくなので、備忘録として、まとめておきます。
紹介された古墳は次の5つ。
藤ノ木古墳
円墳。
六世紀後半。
石棺内に二人の被葬者が埋葬されており、北側の被葬者は17~25歳男性、南側被葬者は20~40歳男性ではないかと言われている。
被葬者は不明。
牧野古墳
円墳。
六世紀末から七世紀初頭。
石室内の奥と手前にふたつの石棺。
押坂彦人大兄皇子の墓と考えられる。
植山古墳
長方形墳。
ひとつの墳丘に、二基の石室を持つ双室墳。
東石室が六世紀後半から末、西石室が七世紀前半とみられる。
推古天皇・竹田皇子の初葬陵と考えられる。(推古天皇・竹田皇子の御陵は後に遷された。)
石室の石材は近隣の神社などに提供され、損壊している。
赤坂天王山古墳
歪な方形墳。
発掘調査が行われていないため築造年代は不明だが、六世紀末から七世紀初頭と思われる。
崇峻天皇陵か?
五条野丸山古墳
奈良県最大の前方後円墳。
石室内の前と奥に二つの石棺。前棺の方が古い。
墳丘と石室、前棺が六世紀後半、奥棺は七世紀初頭と思われる。
蘇我氏の墓と思われる。
(欽明陵説もあるが、欽明陵は梅山古墳と考えるのが妥当)
藤ノ木古墳と同時期の古墳ということですが、二つの石棺がある古墳と崇峻天皇陵が選ばれているのは、藤ノ木古墳の被葬者についての考察材料を提示してくれたのでしょう。
考察をこちらに委ねてくれる、面白い企画でした。
これらから分かるように、ひとつの古墳に被葬者がふたりいる場合でも、基本的にひとつの石棺にはひとりの被葬者です。
対して斑鳩町の藤ノ木古墳は、ひとつの石棺にふたりの被葬者。明らかに異例です。
埋葬状況の復元イメージ図からは、主たる被葬者である北側被葬者の脇に、隙間に入れるように控えめに南側被葬者が置かれているように見えます。
私は、この脇に入れられた南側被葬者は、片岡の飢人ではないかと想像しています。
片岡の飢人とは、日本書紀にかかれている次のような話です。
(私は日本書紀については不勉強なのですが、この話は聖徳太子の伝説として知っていました。)
聖徳太子が片岡に出かけられたとき、道端に飢えた人が倒れていた。太子は飲み物と食べ物を与え、自分の衣をその人に被せた。
翌日、使いを遣わすと飢えた人はすでに亡くなっていて、太子は死体を埋めて墓を造らせた。
数日後、太子は「先日道端に倒れていた飢人は聖人である」と仰った。使者が見に行くと、棺には死体が無く、衣だけが畳んで棺の上に置いてあった。
おわかりでしょうか。この話では、死体がひとつ消えているのです。この死体が、藤ノ木古墳の南側被葬者かもしれないと思いませんか?
もしかしたら、太子が、飢人を聖人として、北側被葬者と一緒に藤ノ木古墳に葬ったのかもしれません。