「エモい」は入れ物
空前の「エモい」大流行。
めちゃめちゃ便利な言葉だ。感動的だったり感傷的だったり叙情的だったりする出来事に対する感情を「エモい」の一言で表現出来る。そのシステム自体は、私はそこそこ好きだ。
この間、ひとつの演劇をつくった。学生の小劇場演劇なのでほとんど身内しか見にこない。卒業公演なのでこれまでの思い出とか互いへの思いとかたくさん詰め込んだ。作っている私達もそれを「エモい」と思っていたし、見に来てくれた人もたくさん「エモい」と言ってくれた。私はそれは素直に嬉しかったし、どこか誇らしくもあった。その時のエモいは、好きだった。
でも、ここ数日Twitterとか見ていて、「エモい」が何だか邪魔な時があった。
よくバズるツイート。誰かのエピソード。個人的なものに思えて、多くの人にとって共感出来たり、ああ、いいなと思えたりする出来事。それを報告するその人の締めくくりが、「エモい」だった。そういうことが何回かあった。
ええー。いや、分かるけど、ここまで語ってくれたあなたの最後の一言が「エモい」なの。すごくもったいない気がする。
いやもちろん「エモい」が間違ってるなんてことはないんだけど、せっかく私にもその出来事の、いいなと思えることが伝わってきて、色々と感じられたのに、もっとその場の、その出来事を受けてこそ映える別の言葉がそこにはいられたのに。エモいにその場所が取られてしまった気がして、何だかはがゆい。
なんだろう。私は一般性の高い出来事に対してエモいを使われるのが嫌なんだろうか。個の集団の中での思い出を書く演劇に対して言われた時は何とも思わなかったのに。
あれかな。個の集団ではそれまでに充分色んなことを共有していて、あえてそのタイミングで中身を確認しあわなくても言いたいことや指していることが感覚的に分かるから、エモい、でも良かったのかも。
ネットだと、その人がその出来事を受けてどこでどう面白みを感じて、いいなと思ったのか確認出来ないから、エモいじゃ物足りないのかな。
エモいって、入れ物なんだと思う。ここがこう切ないとかこんな繋がりに感動したとかこの屈折が美しいとか、そんな諸々を詰め込んでひとくくりにして、取りこぼすことなく相手に伝えるための入れ物。
その中身を充分に確かめあえない状況で「エモい」を渡されるのが、私は不満なのかも知れない。
星が綺麗、と言っても、私はあの左上の赤い星が綺麗だと思っているけれど、もしかしたら隣の人はその下の、薄く靄がかった星雲のような部分を指して言っているのかも知れない。それに気づかないまま綺麗だねとだけ言って別れるのが、何だかすごく寂しいことのように思えてしまう。
きっと「エモい」は、どんな感情も言い表せてしまうけど、だからこそ、表現しうるうち今はどの感情なのか、伝えあうことも表現の楽しさのひとつだと思う。
もし叶うのなら、時々は「エモい」をお休みして、どこをどんなふうに思った、と言ってもらえたなら、嬉しい。
言葉は、何もかも違う私達に同じ部分があることを知るための数少ない指標のひとつだから、せめて。