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ブルーピリオド広島編に立った、真田まち子という巨大な鏡

「ブルーピリオド」映画を観てから、最近また再燃している。原作好きなんだよなー。意外と年をとってからの方が刺さる。好きなことを続ける難しさを痛感するからかな。
映画も板垣さんの世田介や秋谷さんの橋田の再現度が凄すぎるのでぜひ観ていただきたい。みんなで続編を待とう。私、八雲役は倉悠貴さんがいいです。お願いします。

注意、こちら15巻までのネタバレを含みます。



いいですか?

14巻はとくに、すごく綺麗な対比の構造だなと思った。
うつしよには八虎と世田介が、そして鏡の中には八雲と、在りし日の真田まち子がいる。

八虎と八雲。
世田介と真田。
それぞれ名前に同じ字まで共有していて、親切である。
それぞれどこか似ているけれど、主に絵に取り組める環境において、対になっている。
八虎も世田介も生まれた時から世界の中心のような東京にいて、
単純ではないながらも絵に真っ直ぐ取り組むことができた。
八雲と真田は、そうではない。
島根や広島、東京から遥か遠くに生まれ、バイトを重ね泥水をすするような思いもしながら絵に食らいついてきた。
この違いを描いておきながら”恵まれているという才能”を持たざる者である
八雲に「俺たち作品で苦労自慢しようってんじゃないだろ」と言わしめる
作者の手腕には痺れる。
山口つばさ自身は東京の生まれで、芸術高校出身だというのがまたじわじわと染みるんだよな。恵まれている作家として、そうではない人たちに対等な敬意を表そうとしたのかなと。

八虎が八雲から真田の話を聞いている時、
世田介は鉢呂によって真田の家へといざなわれる。
このシーン運びはまるでバディものの映画でも観ているようだ。かっこいい。
世田介の「彼女が生きていたら、俺と矢口さんは今ここにいない」
というセリフがめちゃくちゃいい。
広島組3人だけでは、あの頃との違いはたった一人ぶんの空白だけだ。だからこそ喪失感をまざまざと感じてしまう。そのために、あえて彼女に関係のない世田介と八虎が呼ばれたのだと、俯瞰することが得意な世田介は理解する。
彼がその時いるコミュニティの、欠乏の甚大さそのものを指でなぞるような気づきだ。めちゃくちゃ怜悧。

そう、よたちゃん今回えらかった。よく喋ってた。頑張った。よく考えればこれまでも彼はすごく周りを助けてきた。常にその場において最も、救いのある回答を出せる人。
八虎におはようって自分から言えるようになったのも目覚ましい進歩だし、何より、自分一人ではハードルの高いところでも矢口さんがいるなら行けるかな、というメカニズムが身につきつつあるのがたまらないね。着実に独自の関係性を築きつつあるのが素晴らしいね。犬との熱い抱擁、網膜に焼き付けた。ご褒美ありがとう。たぶん本編で君が抱き合うのは後にも先にもあの犬だけなのでしょう。それもまたよし。

真田まち子は鏡となり、反転した世界を描き出す。対比はどこまでも「生」と「死」、「八虎と世田介」と「八雲と真田」、そして「八雲とモモとはっちゃんと八虎と世田介」と「八雲とモモとはっちゃんと真田」に分けられた二つの世界に裂けていく。過去と現在は少しずつ離れていく。ぽっかりと穴は開いたままである。

でも、どうしたって元々そういうものだし、それでいいのだ。「死んだんだよ、もういないんだ」という穴を覗き見てこそ、今や真田まち子は何度も何度も姿を現すのだし、その容貌は何をどうやったって色褪せていくけど、だからこそ背負ったまま歩いていけるのだから。いつまでも変わらないなんてそれは、生きている限りありえない。

蟹江さんも最低限の演出で複雑さが表現されてていい。「ギャラリーなんて儲からない」と身に染みていながらそんな仕事を敢えて続けていたり、真田の個展で騒いだ八雲を警察に突き出したりするのではなく自らの拳で殴ったり。きっと蟹江さんもこれまで多くのことに辟易して、諦めてきた一人だろう。そんな彼なりの絵や画家への愛情みたいなものが垣間見えたよね。

はっちゃん、「俺は今じゃないと駄目だった」て分かりみ凄すぎる。誰だって最短でやりたいことにストレートで向き合えるものじゃないもんね。
あと国籍をみだりに設定しないのがオシャレだなと思った。

気になったのはモモちゃんである。彼女、事実は教えてくれるけど自分の感情は述べていない。実は結構複雑だったんじゃないか? と邪推しちゃう。
八雲のこと男性として気になったりしたことあったんじゃないのかなとか、それを含めて八雲と真田のことどう思っていたのかな、とか。
たぶんすごく自分の感情に自分でカタをつけるのが上手で、まあだから閉鎖的な感じ(他人が踏み入ろうとしたら凄く警戒する)ところもあるんだろうけど、カッコいいな、寺の子だなって感じの寡黙さだった。
そんな彼女の感情面も、終盤に出てくるモスキート音という「神様」に凝縮されているのがいい。誰にでも分かってほしいわけじゃない、分かってくれる人にだけ見つけてもらえたらええんよ。という感じ。かっけえ。

いや〜しかしこっからちょっと趣味の世界に入ってしまうんだけど、八雲はなんてセクシーなキャラクターなんだろう……。
八虎にはない野生的で泥臭い、なのに脆い色気がある。
あんなガハハキャラなのに、真田の喪失に直面する時の八雲はさながら未亡人のような、言葉にしてはいけない禁忌の艶っぽさがある。
本当に、匂い立つ花のような、そんな恋をしていたんだろうなと思う。社会規範とか消費市場とかに収まってたまるか、簡単に他人から理解されてたまるか、でも命ごと焦がしてんだよというような、でっかくて獰猛でかわいい恋である。だから八雲はあんなにも哀しげな、かわいい顔をするのだ、きっと。
(そして八雲と真田のことを考える時にちゃんと自分と世田介のことに重ねて考える八虎もやはり重症なのだ……たまらん)
「グロい展示だなー」って一言、もはや八雲というキャラクターを象徴するようなセリフじゃないだろうか。忘れられない。
酷い、でも、最低、とかでもない、グロい。憤りというより諦観が覗くこの形容詞を選ぶところがまた、セクシーなんだよなあ。あれだけ荒々しい人間が諦めたように笑う姿がまた。

二人展だなんて、なんてロマンチストなんだろう。まるで結婚式である。画家にとっての絵ってやっぱりコミュニケーションで、描くことと飾ることそのものがライフイベントなんだなあってしみじみした。

15巻で出てきた八虎や八雲の絵は、まさにブルーピリオドという作品における挿絵だなと思った。その時点までの八虎や八雲の人生の要旨であり、集大成である。献花は泣けたよねー。
カラーで見たい。画集欲しい……。

八虎の絵には、やはり八虎だけではなくてもう一人の視線も重なっていたのではないかなと思う。八虎の絵は時々憑依的である。対象を描くために必要な、他者の視線を借りているような時がある。
今回はそれが、真田まち子だったのだと思う。
象徴的に現れた「真田」というキャンバス。あの意味を考え続けている。
藝大2年、広島の夏、確かに真田もひとつの絵を描いていた。
それは、愛しい3人の仲間の背中。
ようやく前を向いている、3人の未来である。
どんな表情をしているのか、真田から見えることはない。それは過去に存在する人間には許されないことだ。
それでも彼女は描き切った。
やはり彼女は、凄まじい画家であるからだ。


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