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自分は終わっている
最近ある楽曲を聴いた。
とてもクセになる楽曲で脳内でその曲が流れたりする程中毒性のある曲だ。
まるで電子ドラッグを聴いているかの様だった。
その電子ドラッグかのような楽曲には、自分はもう終わっているという様な歌詞があった…はず。
このエッセイではその楽曲から得た印象を元に書いていくので、正確なその楽曲の趣旨や、メッセージを受け止めて書くものではないのでご容赦願いたい。
自分は終わっている、という認識は私も経験がある。その時はやるせなくて、苦しくて、悲しくて、とても辛かった。
時としてそれは死の道を選ぼうとする場合もあるほど辛いものだ。
だからこの話は生きていくのであれば、という前提での話にはなる。
自分は終わっているという認識を持った。
その認識している自分はしょうもなくてどうしようもなくて、救いようのない奴だと思った。
事実そうなのかもしれない。
その次は?
自分が終わっていると認識した。では次の一手はどうするのか。
終わっている自分を抱えたまま工夫してやっていくのか、それとも終わっている自分を必死に変えてやっていくのか、それともまた別のやり方か。
次はどうするのか。
自分に絶望している間も時間は待ってくれない。人生は止まってくれない。
明日はまたやってくる。
では終わっている自分で次の一手をどう打つか。
その一手を打ち続けていくことが、生きていくということではないか。
自分は終わっていると認識するのは、つまりは自分が今どこに立っているかを認識するのに類するものだ。
むしろそれが認識出来ているのであれば、何も認識せずただ漫然としているよりよほどましだ。
そこから思案し次の一手を打つ糧にしてしまえばいい。
おかしな言い方になるかもしれないが、自分は終わっているという認識は、寧ろ始まりだ。
そこで腐らず、やけにならず、強かに次の一手を打つ。
その積み重ねが自分をどこかに運んでいってくれるだろう。
…と思った。
自分の少ない人生経験を踏まえて馬鹿正直に考えた結果がこれだ。
まぁ楽曲にそこまで考えなくても…と思わなくもない。
だがもし、自分は終わっていると認識していて、とても辛い思いをしている方がいらっしゃれば、どっかのおっさんがこんなこと言ってたなぁと頭の片隅に置いといてくれれば幸いだ。
少なくともここに自分は終わっていると思っていたおっさんが、おっさんになるまで生きているのは確かだ。
今は幸せかって?
悪くないよ。