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秋から冬の一日(20191016)

 寒い。だいぶ寂しさを感じる季節になってきました。書く内容もなくなってきました。今日は一日中、部屋にいたし。部屋にずっといると書くことがない気がするのはどうしてなんですかね。行動をして外から刺激を受けると脳も活発になるんでしょうか。「今日は何を書こうか」と考える時に引っ張り出そうとするのは、やっぱり記憶から、が主なんでしょうね。だからこそ、刺激的な記憶が多いと動き出しがスムーズになってきます。今日の内訳は半分寝て、半分家事をしてという感じで、取り立てて書くほどのことは何もしていないです。この取り立てて、っていうのが厄介ですけど。多分何もしていないわけじゃないから今日一日で、したことを書いていくということが出来るとは思うんですけど、誰かに見られると思うと、何が伝わるのか、自分がどう見られるようになるのか、ということから意識を離すことは難しくなります。自分はそれを書くことで、どういう人間に見られるようになるのか。自分はどういう人間だと思われたいのか、ということから。

 芸術、娯楽、SNS、コミュニケーションとか、表現をしようとするときって、他人からどう見られるかという意識みたいなものとどう付き合っていくかが厄介なところかもしれません。誰にも見られていないと思えればできるようなことでも萎縮してできないことが多々あります。個人的に紙のノートに書くような日記であれば、普段見られたくないと思うような、恥を感じることでも書くことが出来ます。けれど、人の目に触れるところにこういう風に毎日書くことを選んでみた立場としては、どうでしょう。どのような形でも、どう見られるかという意識からは逃れられないような気もします。個人的に日記を書いていたって「他人の目」みたいなものはつきまとって来る気がします。その日記を読み返すその先の自分だって、現在の自分とは異質の「他人」じゃないかと。どう付き合っていくかでしか迷えないような気もします。「他人の目」と。

 「他人の目」に耐えうるような、魅力的な文章に変化させられるようなエピソードは何も起きなかったし、書きたいことも特にない。でも、書いてみようとしている。そんな時に意識するべきはなんなんでしょうか?毎日書くという目標が制約でしかなくて、無理やり書いているというのは確かにありますけど。そんな状況からも何か意味を見出したくなってしまいます。ターゲットを決めて書くというのは、たぶん、マーケティング(?)とかでは常識的な考え方かとは思いますが。今は例えるなら「商品」がなにもない状況です。売りたいと思うものが何もない。ターゲットを決めようにも、その材料が何もない。そんな時に文章を書くとして、何を書くことができるんでしょうかね。何も書くことがない、寒い、寂しい、秋から冬に、少し書いてみましたが。この文章は何かを表すことはできているんでしょうか。何も書くことがないことを書いている自分は「他人の目」にどう映るのか。とても不安になります。自分ながらとても不思議な行為です。誰かに存在を示したいという欲求ばかり先走って、ここまで書き進めている気もします。誰かの心を打つというためよりも、自分の何もなさに対して、もがいているのかもしれません。内容はないけれど何か動きを見せて、態度を決めたいと思っていて。どこに向かっているかは分からないですが、書くことはやっぱり、寂しい、不安な気持ちに態度を決めるための一つの行動なんじゃないかと思います。材料がなくてもその、材料のない状況に対しての態度だけは書くことができる。態度を決めるために書きたくなってしまう。それは希望なのかどうか分かりませんが。

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