そこにあることが自然だと思われるような店について
コロナ禍を経て根づいて欲しいものが二つある。
客が前もって店に予約してから訪問するのに慣れることと、飲食業の店主が無茶せず働き続けられる勤務体制について。
関西では「行けたら行くわ」を体現するかのように前売りが売れないとか噂レベルで聞いたことがあるが、実際「予約してまで行きたくない、ふらっと行きたい」という意見もよく聞く。いつでも行けるというのも魅力ではあるものの、客が来るか来ないか全くわからないような時勢では、予約があった方が食材ロスは確実に減る。「予約して予定を楽しみに待つ」という楽しみ方が広まればいいなと思っている。
また、話を聞いているかぎりでは飲食業を営む店主は馬鹿げて体力がある。深夜朝方まで営業上等で仕込みも含めると、信じがたい長時間労働をしている。料理の技術より以前に、並外れた体力や振る舞い酒を断らない肝臓など、求められる要素が多い。
ところが、時短営業や自粛期間を経て、まず客が無理をしなくなった。「前に比べたら弱くなったわー」と帰宅時間が早まる。それにつれて店も早じまいをして「段々体調が早寝早起きに慣れてきた」とも聞く。
もしかしたら、これは不幸中の幸いなのかもしれない。店も客も健康的に、無理せず長く通えることが目指すべき地点なのではないかと思うようになった。
そんな折、友人がかねてより足しげく通っていた立ち飲みが気になっていたところに、タイミングがあって顔をつないでもらえる機会を得た。
メニューがどれもとても安い。その上でスパイスや多国籍要素を加えてあって、選ぶ楽しみがある。
16時の開店直後なのに、お年を召した常連さんが既にいらした。
友人から「こちらはxxさん。町内会長もされててこちらの重鎮。前に一緒に海にも行ったひと」
「店内に写真も飾ってある常連一行での海行きは、こちらの方が発端だったんですね」
「そうそう、海行きたいなぁってぼやいてたから、だったら皆で行こか冥土の土産に?って」
冥土の土産にっていう言い方が出てくるのも、どうかすると親戚よりも気の置けないつきあいをしてるんだなと思う。
メニューに「サービス 甘長肉巻き 二本200円」とあるのも見て、一円パチンコにまつわる記憶を思い出していた。
たまの帰省で親や年老いた親戚の話を聞くと、娯楽としてパチンコが幅をきかせており、他にないのかと若干あきれていた。
叔父叔母と母が連れだって関西に遊びに来たとき、叔父が昔はレコードを集めていたと聞いていたから、ジャズ演奏がある喫茶店はどう?と提案したら大変に喜んでいて、任意のチップに何枚も千円札をはずんでいた。
「こんな店が近所にあれば、パチンコ行かないのにな」と言っていて「適度に顔見知りができて、でも放ってもおかれる関係で、いつでも行って良くて楽しさがある」場所が近所にないんだ、と思うと同時に、パチンコ店が大事な社交場として機能していることに思い至った。
博打としての目当てだけではない、どこかでそう決めつけてしまっていた思い込みを恥じた。
この値段なら場所なら、パチンコに行く必要ない。話ができるひとが入れ替わり立ち替わり来て、それでいて気安さもある。味も食べ疲れしない。
でもずっと立ちだとしんどくならないのかなと思ったら「座れる椅子もあるんだよ」と店の片隅にスツールが重ねて置いてあるのを教えてもらった。
スツールの色がそれぞれ違う。
使われている木材が違うらしく、座面の裏に「胡桃の木」とか「アフリカの木」と書いてある。重さも材質によって様々で、意外と重たかったり軽かったりする。高さも違うのが二種類ある。そのスツールを立ち飲みカウンターの前に据えると、カウンターの下部が斜めに傾斜がついていて、脚がつかえないようになっている。
こんな細部まで、使うひとの使い勝手を考えられた内装はあまり見たことがない。
別の話ではあるが、今まで単身用賃貸物件を探していたとき、あまりにもキッチンがないがしろにされていて「ラーメンでも作れたら十分だろ」と言いたげな、動線も何も考えられた跡が見えない設計に、本当に設計したひとや意思決定権者は台所に立ってみたことがあるんだろうか、自分のために料理をするという行為が粗雑に扱われていると憤っていた。
だからこそ「自分が使ってみてどうか?」ということが考えられた、押しつけでない設計、どうかすると設計したひとも飲みに来て腰かけるんじゃないだろうかと思うほどに「作るひとと使うひとが一致している」ことに感動を覚えた。
加えて、スツールの素材や高さがランダムなことは、座るひとが「こっちの方が使い勝手がいい」と選ぶこともできるし、その選択を尊重しますというメッセージ、ひいては「あなたがここにいることを歓迎します」ということに繋がっている。
店内には小上がりがあってちゃぶ台が置かれている。
小上がりの近くには背の低い棚がしつらえられていて、賑やかな駄菓子がひしめいている。棚の高さや位置から、銭湯の横にあって銭湯帰りや学校帰りの子どもが駄菓子を買っていく様子がリアルに目に浮かぶ。
駄菓子が居酒屋やBARで売りにされるとき、大抵は「かつて子どもだった人たち」が懐かしむ小道具として使われている。
それが、きちんと子ども向けとして置き直されていることは棚の造作からも明らかだった。
子どもは自由になるお金が少ない。それこそ大人であれば不動産を買うのに匹敵するくらい緊張しながら全財産を投げうって駄菓子を買っているし、お金と物品のやり取りをするという行為にも、家庭以外の社会に仲間入りをするという意義が滲む。その真剣さに、まともに向き合おうとしている。
これも「選ぶ」という行為、ひいては個人の尊重につながっている。
お年を召した方でも、子どもでも招き入れられる場所をつくりたいのだと思う。
もしかすると、駄菓子を選んでいる子どもの横で大人も同じものを買って「それいいよね」という会話が生まれるかもしれないし、子どもが見ている前だったらだらしなく飲んではいけないと気持ちが引き締まる効果もあるのかもしれない。あくまで副産物として。
お店は営業日が少なく、店じまいも早い。
店主はお子さんと過ごす時間や、美術展や映画を観に行く時間もとても大切にされていて、店内にあちこちの展示のリーフレットが貼ってある。なによりもご自身の生活を大切にされながら、その延長で営業されていて、近隣にお住まいの方が無理せず通える値段と味と時間であることがわかって、滞在している間ずっと店主の生活が充実して実った結果のおすそわけをいただくような気持ちでいた。
常連さんから「ここでは横文字、カタカナの用語とかを使うと店主から渋い顔をされるんですよ」と笑いながら言うのを聞いた。
それも何となくわかる。カタカナ用語はどうしても「わかっているひと向け」に手っ取り早く情報を伝えるための道具として機能して、同時に「わかっていないひと」を排除する。
渋い顔をする、という穏やかな注意の仕方が店内の自治のあり方を示している。
そんなこともあり「サードプレイス」という言葉は使いたくなかった。私自身がわかったふりをしてしまうような言葉であるし、こちらの店の良さを伝えるには、あまりに取りこぼしが多い。
街場、だがし、スタンド、ヒダリマキ
お店のInstagram
Google MAP
webに書いてもいいと承諾はいただいたものの、雑誌やYouTubeの掲載は断っているとお聞きして、店名をあげるか迷った。
本当は、もっともっと新しいお客さんも受け入れたいのだと思う。でもご自身の掌にあまるものを受け止められないなら困る、なによりもいま通っていらっしゃる方を大切にしたいという気持ちからの掲載お断りなのは間違いない。
一見さんを排除したくてのことではない。だからこそ「美味くて安い」だけではなくて「お邪魔します」という気持ちで立ち寄れそうなら、いろいろなひとに立ち寄ってみて欲しい店だった。
※お店を訪れてから思い出していた文章
・「〈責任〉の生成 中動態と当事者研究」(新曜社/國分功一郎 熊谷晋一郎)
医学モデルから環境モデルについてと、意思と責任についての話を思い出していた。
・「徒歩圏のダンディズム」
友人のカワウソ祭による文章。酒場をきちんと規則正しく巡るダンディズムについて。ヒダリマキさんに規則正しく通われている"大先輩"に通じる。
・「縁食論 孤食と共食のあいだ」(ミシマ社/藤原辰史)
かつては公的な「食堂」があり、いまも本当は求められているのではないかということ。藤原辰史が今後あってほしいものとしてイメージしているものに、こちらはかなり近いような気がしていた。
・「アマゾンの倉庫で絶叫し、ウーバーの車で発狂した」(光文社/ジェームズ・ブラッドワース)
各社の労働事情を知るために潜入して書かれたもの。日本では横田増生がUNIQLOや宅配業者に潜入していたのと似る。
本書は「働きにくさ」の現場でのディテールが細かく「左派はイデオロギー闘争に溺れて、一見退屈にも見える労働条件の改善を図ろうとはしてくれない」と嘆き「現代のスクルージは、ノータイでシャツの袖を捲り多様性が大事だと叫ぶが搾取には長けている」と述べる。
今回のスツールについて、イデオロギーや理想を大上段に語るのとは真逆の、具体的なものから始めて理想を実現しようとしていると感じたのは、この内容が頭にあったせいでもある。
下記は二回目のメニューと頼んだもの