20191218

今さらだが何故僕はひたすら授業のレビューをしているのだろうか。
ということをちょっと考えたが、「授業をきっかけになにかを考えることがほとんどだ」ということに尽きる気がする。
ふと考えたことをアウトプットする場としてのこの日記だが、外部の刺激がないと新しい考えもなかなか出てこないのだから、それで当たり前な気がする。

松井ゼミで卒論発表をした。いま僕は「クラブコンバット」というジャグリングのゲームの戦略を分析しようとしているのだが、似たような研究もほぼないのでモデルの立て方が難しい。
せっかく進んだと思ったら、発表前日に凡ミスに気付き、均衡が求まらないまま発表するはめに。悲しい…

しかしそこはプロの学者。先生は一瞬にしてモデルのミスを見つけ、それを修正すれば均衡も出るのではないかといわれた。確かにその観点がモデルに入れば言いたかった結論は出るのだが、入れ方に難儀していたところだ。
さらには、このゲームは類似のものがたくさんあるが、他のゲームと違い分析がしやすい部分もあることが分かった。自分の卒論テーマの強みを見出だせたのもかなり大きい。本当に頭が上がらない。

他の人の卒論発表もかなり興味深かった。やはり同じ時間を過ごしていても着眼点は十人十色。同じ武器だけを使い、様々な分野で問題を考えることができるのは、経済学部ならではかもしれない。学部の限界に悩むことも多いが、今日は少し見直した。

バリアフリー総論。障害者への「合理的配慮」とはなにか、という問題。
障害があるから試験時間を伸ばせば良い、などという簡単な話ではない。本人にとって効果のない配慮をしてしまう可能性もあれば、過剰な配慮をしたために逆に有利になってしまい、他の人が割を食う可能性もある。「合理的配慮」はとても難しいのだ。

そういった対策として一番なのは、ユニバーサルデザインのように「最初から幅広い人に対応しておく」ことなのだろう。そうすれば特別扱いをする必要もない。村人全員が手話を使えれば聴覚障害も問題ではない、というのと同じ話である。
この発想はもっと日常的な話でも使える。例えば、長時間の講義に集中することが難しい人(僕がそうである)にとっては、講義スライドの配布は授業の理解に大きな効果をもたらす。また、そうでない人にとってもスライドを配布することは利益である。ならば講師に若干の負担はあるが、スライドを配布することはユニバーサルデザイン的な取り組みと言えよう。
(スライドを配布すると授業に出席しなくなる、という懸念はあるが、授業の目的は出席ではなく勉強をなのだから、スライドを見て家で勉強する、という使い方に問題はないだろう。)

そもそも「特別な配慮」というのは弱者を区別することで初めて行われるものである。できるだけ、最初から特別な配慮をする必要のない社会を作ることが大事なのだろう。

夜はサークルで練習。最近は本当に調子がよく、記録面でもジャグリングの上達が著しい。練習は普段の何倍もきついのだが、仲間がいるから頑張れる。この調子でまだまだ走れそうだ。

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