不登校になった時、田舎のじいちゃんの家に行った話
中学の時に、ある朝突然布団から出れなくなった。
平日の朝、いつものように母が起きて、お父さんが起きて、弟が起きて、みんな準備をしているのに、私は布団から出れなかった。
「早よ起き。何してんの、早よして」
と母の声が聞こえたけど、声が出なかった。
体が固まって、布団と合体してしまったみたいだった。
やがて、母がキレて和室の襖をピシャっと開けて、
「いい加減に起き!!!!」
という感じで怒っていたけど、それでも私は起き上がれなかった。
気づいたら涙が出ていて、「無理。」と一言だけ言うと、
母がまた怒って「もう知らん!!!」と、襖をまたピシャっと閉めた。
そのうち、お父さんが出勤して、弟が学校へ行った音がした。
家の中には母一人だけの音が残って、襖の向こうで皿を洗ったり洗濯機が止まる音などがしていた。
やがて母が中学校に「体調が悪いようなので…」と欠席の電話をしている声も聞こえた。
良かった、とりあえず今日は行かなくてよくなったみたいだ。
当時、中学ではいじめがあって、私自身も厨二病みたいな感じになってて、色々病んでいた。
毎日なんとか制服を着て学校に行っていたけど、精神的にギリギリで、突然朝布団から出れなくなって、もうこれはついにダメかもしれないな、と思った。
母は、当時なんだかピリピリしていた。
どんな風に毎日家の中で母と話したり、ご飯食べたり、過ごしていたのか、ほとんど覚えていない。
でも、毎日ピリピリしていて、情緒不安定そうだったのは、すごく覚えている。
だから、中学生の娘が学校に行かず布団にくるまって泣いて病んでいるなんて、それはそれはさぞかしイラついていただろうな、と思う。
私は、布団の中で、母がまた襖をピシャっと開けて入ってくるのが怖くてドキドキしていた。
何を言われるんだろう、学校行けって言われるのか、それともキレられるのか、だんだん恐怖になっていった。
どれぐらい時間が経ったか分からないけれど、襖の向こうで、母が電話で誰かと話している声が聞こえた。
どうやら学校ではなさそうだった。
やがて電話が終わったらしく、こっちに足音が近づいてくる。
来る。なんだ。何言われるか。怒られるか、明日から行けって言われるか。
そしたら、襖がゆっくり開いて、母が無表情で、「あんた、じいちゃんとこ行き」と言ってきた。
母方の父である私のじいちゃんは、ばあちゃんが死んでから田舎の家に一人で暮らしていた。
元々小学校の校長先生だったけど、当時は引退して静かに生きていた。
盆と正月くらいしか遊びに行かなかったじいちゃんの田舎の家に、突然行けと言われている。
なんで?と聞こうとしたら、母の方から
「昼間、家の中であんたと二人でいてもどうしたらいいのか分からんし、どうせ明日も行かんやろ。やったら、じいちゃんとこ行き」
と言われた。
私は、展開についていけなかったけど、正直ラッキーと思った。
母の言う通り明日も明後日も行きたくないし、でも昼間に母と二人きりで過ごすなんて、こっちもごめんだ。
それに、私は田舎の家が好きだった。
学校のある平日に田舎に行けるなんてこんな機会他にない。
すぐに荷物をまとめて、小遣いを持って、家を出た。
最寄りの駅から、快速乗り継ぎで大体2時間くらい。
いつもは家族で行く道を、その日は初めて一人で進んだ。
田舎の駅に着くと、じいちゃんの家に電話をした。
当時はまだスマホがなかったので、駅の公衆電話からかけた。
駅からは歩いたらおそらく40分はかかるので、迎えに来てもらった。
じいちゃんは少し経ってから古い白のクラウンで来てくれて、近くのスーパーに寄って簡単な買い物をして、田舎の家に帰った。
じいちゃんは、何も聞かなかった。
学校どうした?とか、何か嫌なことでもあるのか?とか、聞かれるだろうなと思っていたけど、本当に何も聞いてこなかった。
酒を飲んでいない時は無口なじいちゃんなので、昼間もほとんど会話はなかった。
仕事は引退していたものの、じいちゃんは毎日、畑仕事や町内会の仕事で忙しそうだった。
私は毎日、一人で縁側の掃除をしてみたり、じいちゃんの盆栽に水をやってみたり、近所の田圃道を散歩したりしていた。
埃が積もった古い漫画や本をダラダラ読んだり、死んだばあちゃんが残したピアノを弾いたりして、特に何もしなかった。
食事はじいちゃんが作っていた常備菜や漬物、味噌汁や、餅なんかを食べて過ごしていたと思う。
これは食費がほとんどかからないし、健康的だし、痩せるしかない生活だな、と思った。
そんな田舎の家での日々が一週間くらい経った日、じいちゃんが昼食に連れて行ってくれた。
がら空きの田舎の焼肉屋のランチで、セットを注文してくれて、二人で無言で昼間から硬い肉を焼いて食べた。
帰り道、隣の本屋に寄ってくれて、読みたかった本と、ポップスのピアノ楽譜を買ってくれた。
家から外に出ても、じいちゃんはほとんど何も話さなかった。
ただじいちゃんは無口な人だけだったのかもだけど、それもじいちゃんの優しさだったのかな、と今は思う。
じいちゃんとゆっくり過ごせる時間が心地よかった。老人ならではのゆったりとした、ひとつひとつの動作も、私を癒してくれた。
多分じいちゃんの家に来てから二週間くらい経ったある日、外に出ると真っ白な雪景色になっていた。
2月だったので、冬真っ只中で、その日は朝からしんしんと雪が降っていた。
都会育ちの私はその景色が珍しくて、静かに興奮した。
空を見上げると、雪の粒が次々と降り注いでいて、それずっと見ていると、なんだか自分の方が空の中へ吸い込まれていくような気持ちになった。
ずっと雪を見ていると、そろそろ戻ろうかな、という考えに急になぜかなった。
じいちゃんも忙しそうだったし、あまり長くいるのは迷惑だろうなと薄々思っていた。
じいちゃんに、そろそろ帰ろうと思う。というと、「そうか」とだけ言って、母に電話をして、段取りをしてくれた。
そういえば、じいちゃんの家に滞在している間、母からの連絡は一切無かった。
もしかすると、じいちゃんにはあったのかもしれないけど、私にはなかった。
母と中学校と距離ができたことで、私は少し落ち着くことができた。
田舎の人たちは、毎日同じように畑仕事をしたり、花をいじったり、犬の散歩をしたり、淡々と過ごしていた。
そこには、私の知らなかった生活があって、じいちゃんの生活も、初めてじっくり見ることができた。
毎日花がらが摘まれ美しく並んでいる玄関先の鉢植えとか、綺麗に紐で縛られている古新聞とか、床下に保管されている漬物とか梅干しとか、思っていたより田舎の暮らしはめんどくさそうで、丁寧だった。
私は、たくさん物があるはずの都会で、家と中学校の往復ばかりの毎日で、視野が狭くなっていたのかもしれない。
本当は、この世の中はもっともっと広くて、いろんな人や街があって、私の知らない世界がたくさんあることに気がついた。
中学も家も地元も居心地が悪くて嫌いだったけど、そこから抜けると、自分の世界も広がるんじゃないかと、希望が出てきた。
見慣れない雪景色を見ていると、そういう気持ちになれた。
帰る前日の夜、じいちゃんにカレーを作った。
長いことじいちゃんの家にいたのに、私は一度も調理をしたことがなかった。
カレーくらいなら作れるかなと、自分で野菜を切って、煮込んで、ご飯を炊いた。
いつも無口なじいちゃんだったけど、カレーを食べているときは、少しだけ嬉しそうに笑ってくれていた。
次の日、じいちゃんは軽トラで私を最寄りの駅まで送ってくれた。
電車が来るまでまだ時間があったけど、知り合いのお爺さんがすぐに来て合流し、「気をつけて帰りや」とだけ言って、さっさと行ってしまった。
私とじいちゃんの二人生活は、あっけなく終わった。
私は田舎の無人駅で、都会へ戻る電車を待った。
田舎の電車は都会と違っていつまで経ってもなかなか来ない。
電車を待ちながら、家に帰ると母がいて、父や弟もいて、そして学校もまた始まる生活を、想像してみた。
同じようなしんどい毎日が始まる。
正直億劫だったけど、雪の景色を見ながら将来への希望を感じていたので、ここに来る前よりは、前向きだった。
私は田舎に来て、世界は本当は広いということを知って、人生が少し変わった。
戻ったら、とりあえず行きたい高校を探そうと思った。
よく考えたら、あと少しで中三になり、受験が始まる。
地元の中学から離れて、遠い高校へ行こうと決めた。
そのために勉強が必要だったら、頑張ろうと思った。
そんなことを考えていたら電車が来て、私は乗り込んだ。
田舎にずっといると髪や顔が汚くても気にしなくなっていたので、都会の駅に近づくほど、芋芋しい自分が恥ずかしくなってきて、マフラーで顔を半分くらい隠していた。
家に帰ると、母がおかえりと言っただけで、やっぱり何も聞いてこなかった。
そのあとすぐに学校に行ったのか、まだ少し引きこもっていたのかは、覚えていないけれど、中三になった頃には、毎日通うようになった。
進路相談室やインターネットで、高校の情報を調べて、体験入学にたくさん行った。
自分で行きたい高校を決めて、勉強して、受験して、合格した。
高校に行ったら、嫌だった地元とも離れることができて、新しい人間関係の中で、新しい生活を始めることができた。
高校は、遅刻は多かったけど、一度も不登校になることはなく、ちゃんと卒業をした。
じいちゃんの家へは、あれからほとんど行かなくなった。
そしてじいちゃんは、高校を卒業した年の春に死んだ。
町内会のメンバーで行った旅行先で、朝食会場に向かう途中、ホテルのエレベーターの中で突然倒れたらしい。
あの田舎の広い家で、一人っきりで倒れたわけではなく、前夜は宴会で楽しく酒を呑み、朝は自分でシャワーを浴びて、身体もとっても綺麗だったらしい。
エレベーターには仲間が一緒に乗り込んでいて、すぐに救急車を呼んでくれて、最後まで仲間が側にいてくれたらしい。
母がホテル近くの病院まで死んだじいちゃんを迎えに行った道中、雨上がりに綺麗な虹が見えたようで「あれは父ちゃんが見せてくれた虹や」と言っていた。
人というのはいつも見ている虹でも、その状況に合わせて都合よく解釈するもんなんだな、と思った。
私も、もしかしたら母や父が死んだ時、虫でも飛んできたら、同じようなことを思うのかな、なんて思ったりもした。
じいちゃんの葬式は田舎の家で行われ、たくさんの人が来て、じいちゃんの人生の集大成を見たような気がした。
あんなにたくさんの人が集まる葬式は初めてだったので驚いた。
果たして自分が死んだ時、こんなに人が集まってくれるだろうか。
ということも考えたりした。
高校を卒業後、美容学校に通っていた私は、じいちゃんの最後の髪のセットを任された。
じいちゃんの持ち物の中に、白髪隠しが入っていたらしく、これを塗ってくれと頼まれたけど、じいちゃんは全頭がすでに白髪だったので、一体どこをどう隠すんだろうかと、美容学生の私は困った。
少しだけ白髪隠しを適当に馴染ませて、クシで髪を整えた。
私にとってじいちゃんとの思い出は、不登校の時に過ごさせてもらった時間が一番で、それは母も私も周りに言わなかったので、少しだけ特別なものになっている。
葬式が終わって、みんなが帰って、がらんとした広い田舎の家で、死んでしまったじいちゃんの存在を感じたりしていた。
私はあの時、ちゃんとありがとうと言っただろうか、と、思ったけど、思い出せなかった。
もう手を合わせて伝えるしかなくて、あの時ちゃんと言えばよかったなということと、もうちょっと生きていてくれてもよかったのに、と思った。
不登校になった時、母もじいちゃんも私に何も聞かず、距離を置いて見守ってくれていたから、私は自分で立ち上がることができた。
大切なことを言葉で伝えたり表現するのが苦手なのは、親子よく似ていると思う。
じいちゃんも言葉が少ない人だったから、これは先祖代々受け継がれている性格なのだろう。
今私は母と折り合いが悪くなり距離を置いているし、じいちゃんの家も空き家になってしまい、時間の流れとともに寂しさもある。
この先あの家や、私と母の関係はどうなっていくんだろう。
そんなことは分からないけれど、私にとっては、じいちゃんの家で過ごしたあの時間が今でもすごく特別なことで、辛い時に思い出して元気の源になるくらいの記憶になっている。
あの家の縁側が大好きで、空に吸い込まれそうな雪や、ゆっくり動くじいちゃんや、死んだばあちゃんが残したピアノや、手作りの編み物。
今物理的に全部そばに無いけれど、思い出したらいつでも温かく包み込んでくれるその記憶は、これからも私の人生の支えになってくれると思う。
じいちゃん、本当に、あの時はありがとう。