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死に関わる事業をつくる理由

「若いのに、なんで死に関する事業をやっているんですか?」
とよく聴かれるので書いておきます。

私は成長を強要する右肩上がり一辺倒・成長至上主義への違和感を持っています。この違和感と向き合った結果、死に関する事業をやることになりました。

なぜ右肩上がり一辺倒・成長至上主義への違和感を抱いたかというと、いわゆる過疎地域に住んでいた経験があるからです。
経済成長していなくて、人間でいう「死」に向かっているようなその地域にも、その地域なりの幸せがあります。
当然、その地域は経済成長・活性化というモノサシにはのりません。むしろ、衰退・消滅というネガティブなラベルを貼られます。これは終わりへのタブー視です。

「なぜ終わりをタブー視するか」
という問いへの仮説として
「死と日常を分断したことが終わりをタブー視する風潮をうんだ」
としました。

私達は自然をコントロールして生きています。農業も林業も建築も土木も。人間の営みは狩猟採集から農耕へと移っていったように、「自然をコントロールすること」を常に目指しています。
でも、コントロールしきれない自然があります。内なる自然である「生老病死」です。コントロールできないから、直視できないのは理解できます。
とはいえ、身近に死はあって、あたりまえのことです。自然です。

戦後直後までは日常に死がありました。
お葬式もまだ商品ではなく、地域の相互扶助のなかで行われていたからです。しかし、今はお葬式は商品となり、死に蓋をするような役割をも担っています。死に蓋をしたことで、死のリアリティを忘れてしまった私達は無常観をも忘れています。

無常とは、常ではない、という意味だけです。どんな物事も永遠ではない、ということです。物事を永遠ではなくただ移りゆくものとして観る。ただただ観る。それが無常観です。この観方ができないと「タブー視」になります。

この無常観が、経済成長一辺倒の社会の軟着陸につながると思っています。
日常と死という自然を溶かすところから、自分の違和感である成長至上主義の次を考えていきたいという願いがあります。

だから私は死を日常に溶かす事業をしています。

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