葬式=1 に対して 所属コミュニティ=xx
一生でいくつのコミュニティに所属しますか?
お葬式には生きてきた中で関わってきた人々が参集します。私は「自分のお葬式には誰が来てくれるんだろうな〜」と興味をもってしまうタイプです。きっと棺のなかで「生きてるうちに会いたかったよ!」となっているはずです。その時まで、今の「一般葬」があるかわかりませんが・・・
そんな話はさておき・・・
お葬式は「故人の知人である」という共通点だけをもった見ず知らずの人がいる場です。
お葬式に遺された人々の心の整理をする場という役割を期待した時に、そんなアウェイな状況で死別の悲しみから故人のいない日常への第一歩を踏み出せるのか、疑問が残ります。
なんとなく、「自分の服装、失礼じゃないかな?」「挨拶ってこれでいいんだっけ?」みたいなことにソワソワしがちになってしまうのではないかと思います。
もし仮に、今、私が死んだとします。私には中学時代の友人もいれば、高校時代の友人もいます。大学の友人もいます。
この異なるコミュニティに属する人達が「前田陽汰」という人間を旗に、集結した所で、ただただ気を遣い合う空間が生まれることが容易に想像できます。
もちろん、「故人の一生はこんなにも多くの人に支えられていたのか」とその場で感じることもあるでしょう。それが遺族の悲しみを和らげるきっかけになる事は確かですが・・・
属するコミュニティが血縁と地縁と会社だけだった頃はいいでしょうが、今はそれに収まりません。そんな中、従来通り1つの「お葬式」という箱に収めるのは無理が生じてきているのでは?と感じます。
葬儀の役割って?
葬儀の役割の1つとして故人の死を社会に表明する場、家主の代替わりを表明する場がありました。それも今は薄れつつあるように思います。
理由としてはコミュニティが多様化し「社会」の範囲が広がったこと。都市化によって住まいとしての家の形も変化し「イエ」という意識を持ちづらくなったことが挙げられます。
その中で、今は「葬儀を挙げないと故人が浮かばれない」という故人の尊重であったり、「きちんと送りたい」という感謝の現れであったり、「あの世に送る」という区切りや折り合いであったりと、社会的要因以上に遺された人々の心的な要因によって葬儀が変化しているように思います。
死が私有化されている感覚
お葬式が昨今の葬儀の小規模化に伴い、葬儀を近親者のみで執り行う家族葬や火葬のみの火葬式が増え、また、そういった弔いの選択もあるよね、という風潮が徐々にできているように感じます。
時代に合った変化なので、この変化が良い・悪い、ということは言えません。一方で「葬儀をどうするか」という決定権が遺族にあることは変わらず、故人の死が遺族に私有化されることによって、生前故人と関わりがあった人々のお別れの機会は失われつつあります。
一番悲しいのは遺族であり、遺族の決断を尊重しよう、という空気もいい意味で生まれているように思います。葬儀の多様性を認める風潮ですね。とはいえ、大切な友人を亡くした人も同様に悲しみを抱えていることは事実です。その悲しみの行き場はどうなるのか、現代の葬儀の変化の中で見落とされてきた部分なのではないでしょうか?
つまり、何がいいたいのか
・多くのコミュニティに所属するようになった今、お葬式という1つの箱に全関係者が集合するので良かったっけ?という問い。
・一方、遺族以外はお葬式という箱に立ち入れない(家族葬・火葬式)という状況が主流になりつつあるなかで、立ち入れない人の想いの行き場はどうなるんだっけ?という問い。
この2つの問いを共有したかったのでこのnoteを書きました。
2つ目の「立ち入れない人の想いの行き場」として、葬想式は使えるのではないか、という仮説をもって日々事業をつくっています。
最後までお読みいただきありがとうございました!
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