「理解できる」は暴力だけど、理解する試みをやめてはいけない
先日、私が運営している「葬想式」のご利用がありました。
葬想式は、お葬式の思い出コーナーをスマホ上につくりだすサービスです。
私と同い年か1つ下の男性が亡くなり、その方の葬想式でした。
男子学生の多くは、友達と遊びに行った写真を親に送ったりしないと思います。私もそうです。
たまに親から
「〜〜行ったの?写真送って!」
と言われたら送ります。
すると親は喜んでくれます。
今回の葬想式は故人様のお母様が開式されました。総勢120名近くの参列があり、故人様のご友人や知人からたくさんの写真やメッセージが集まりました。お母様の知らない故人様の姿が映っていた写真もあったと思います。
上記の文字面を追うと綺麗な話しに見えますが、写真というビジュアルが持つ力は大きく、時として人を傷つける力にもなります。
もちろん、意志を持って開式していることですし、到底そのお母様の気持ちは理解できるものではありません。
理解できると思い込む事はある種の暴力である一方、理解する試みをやめた所で、サービスの価値は止まってしまうと思います。
年が近いため、自分に重ねて想像しました。
自分が死んで、葬想式が開式されて、自分が映っている写真が親に届いたら、どんな気持ちになるのか。
写真を振り返り、送る友人はどんな気持ちになるのか。
理解しようとする試みは時として目を背けたくなりますが、向き合い続けようと思います。ここに宣言しておきます。