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「恋愛感情」とは何か-フロム『愛するということ』から考える-


はじめに

「恋愛感情ってどういうものだと思う?」
そう聞かれて、自分の考えをすぐに言える人もいるだろう。
逆に、改めて恋愛感情を言語化するとなると、分からなくなる人もいるだろう。

自分は後者の人間だ。
しかも、「これは恋愛感情かもしれない」という感覚すら抱いたことがない。
何人かの友人に恋愛感情について聞いてみたことがあったが、人によっていうことは違うし、どれも自分にとってしっくりくるものはなかった。
きっと、恋愛感情は多義的で明確な答えがない。しかし、多くの人にとっては感覚的に理解できる、そういうものなのだろう。
恋愛感情が分からない自分は、単に自分に人間としての感情が欠落しているのか、それとも恋愛感情について難しく考えすぎているのか……そんな風に自分を責めたり追い込んだりすることもあった。

そんな時に出会った、一冊の本。
エーリッヒ・フロムの『愛するということ』。
この本を読んで、なんとなく自分の中で恋愛の解像度が上がり、なんとなくイメージしていた恋愛感情という概念を拡張することができたように思う。

今回は『愛するということ』の内容を踏まえながら、「恋愛感情とは何か」を考えていく。
特に、本書の「異性愛(p.85~92)」の箇所を参照しながら
・恋愛に性的な関係は必要か
・恋愛の排他性(所有欲、依存、友情と恋愛の違い)
という恋愛感情について考えるうえでよく話題に上がるテーマについて、自分なりに深堀りする。

愛と性欲は別物か

恋愛関係というと、一般的に「性的な関係が必須である」と思われる節がある。しかし、私自身、特定の誰かに「性的に惹かれる」という経験をしたことがない。
性的に惹かれることがない人や、性的な関係を求めていない人は恋愛をしてはいけないのだろうか。パートナーと生涯を共にしてはいけないのだろうか。
性的に惹かれる感覚はないものの、誰かと一緒に生きていきたいという気持ちは強くある。できることならば、この願望を叶えたいと思う。
そこで、恋愛において、本当に性的関係・性欲が必要なのかどうか、『愛するということ』から引用しながら検討していく。


恋愛と性欲を切り離す理由

セクシュアリティを考える、あるいは分類を行うとき、「恋愛感情(恋愛的惹かれ)」と「性的欲求(性的惹かれ)」は別物として考える。
例えば、ある特定の異性と恋愛的な関係を築きたいが、その人に対し性的な魅力は感じないし、キスやセックスはしたくない、ということがあり得る。
私自身もこれと似た感じで、人生を共にするパートナーは欲しいと思っているが、性的に惹かれるという感覚はない。

しかしながら、恋愛関係と友人関係を区別しようとしたとき、性的な関係の有無で区別しようとする人はまだまだ多いように思う。
もっとわかりやすく言えば、恋愛関係になったら、「手をつなぐ」「キスをする」「セックスをする」という行為を(段階を踏みながら)当然しなければならないという価値観を持っている人が多い、ということである。それはつまり、多くの人は性的な関係を継続したり深めていったりすることによって、恋愛関係を強く意識できるということなのかもしれない。

また別の見方をしてみよう。
恋愛関係に性的な関係を持ち込む人は多い。しかし、中には恋愛関係でなくても性的な行為を行う人もいる。いわゆる「セフレ」という関係もそうだし、性風俗店での性行為もそれに該当するだろう。
つまり、これも恋愛感情と性的欲求を切り分けているパターンと言える。

一旦、ここまでの話をまとめよう。
恋愛を考えたとき、性的欲求と結び付ける人が多い。
しかし、性行為を行ったからと言って、必ずしも恋愛関係になるわけではない。
このように考えると、恋愛感情と性的欲求は区別して考えた方がいいように思う。もちろん、恋愛感情と性的欲求を区別するだけで、その二つが共存してはいけないということではない。

では、恋愛関係に必ずしも性欲や性的な行為は必要なのかということを、フロムの言葉から考えたい。フロムは『愛するということ』で以下のように述べている。

だが、性欲は、愛によってかきたてられることもあるが、孤独の不安や、征服したいとか征服されたいといった願望や、虚栄心や、傷つけたいという願望や、ときには相手を破滅させたいという願望によっても、かきたてられる。性欲はどんな激しい感情とも容易に結びつき、どんな激しい感情とも容易に結びつき、どんな激しい感情によってもかきたてられるようだ。愛はそうした激しい感情の一つにすぎない。たいていの人は性欲を愛と結び付けて考えているので、二人の人間が肉体的に求めあうときは愛しあっているのだと誤解している。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』 紀伊国屋書店 1991 p.88

これを読む限り、フロムは愛と性欲を分けて考えているようだ。

  • 性欲は愛によってかきたてられることもある。

  • 性欲は(愛ではない)激しい感情によってもかきたてられる。

孤独の不安や征服願望、虚栄心など、ネガティブな感情からも性欲がかきたてられる。その場合の性欲は、愛によってかきたてられたものではない、というのは、自分としてはすっと腑に落ちる感覚がある。

よくよく考えたら、相手への純粋な愛ではなく、自尊心を満たしたいという気持ちから性欲が湧いたり、性的な関係を持ちたいという方はいるのではないか、と想像する。そこに「愛」がなくとも、恋愛と性欲を結びつけることによって、そうしたネガティブな感情から目を逸らすことができる。
性的な関係を持っているのに、満たされているのは行為をしているその瞬間だけで、行為が終わってしばらくしてから急な孤独感や虚無感、自責の念に襲われてしまうという話もよく聞く。

愛が性欲をかきたてるとき

少なくとも、性的欲求が直接恋愛感情につながることはなさそうだ。では、恋愛感情があるとき、かならず性的欲求が湧いてくるのか、また愛が性欲をかきたてるのはどんな時なのかを考えていきたい。

ここで、フロムの記述を見てみよう。

もちろん愛が性欲をかきたてることもある。ただしその場合の肉体関係には、貪欲さも、征服したいという願望も征服されたいという願望も欠けており、そのかわりに優しさがある。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』 紀伊国屋書店 1991 p.88

「愛が性欲をかきたてられること”も”ある。」
とフロムは言っている。
ここから読み取れるのは、恋愛感情が性欲とかならず結びつくかどうかについては分からないが、性欲は愛によってかきたてられる一つの現象ということだろうか。
少なくとも、肉体関係以外にも愛を表現する手段はたくさんある、と考えているように思える。「性的関係を持ちたくないが、パートナーは欲しい」と考えている方にとって、肉体関係以外でも愛を表現できるという価値観は非常に重要だと思う。少なくとも、私自身はここに希望を感じた。

では、「愛が性欲をかきたてる」というのはどういうことか。
フロムは、肉体関係の中にただ優しさがある、というようなことを言っている。つまり、愛のあるセックスというのは、相手を思いやるような優しいものなのかもしれない。そして、この優しさのある肉体関係の形は多様だろう。二人が真の対話を交わしていくことによって生まれる、そういう肉体関係なのだと思う。

というわけで、恋愛感情と性的欲求の関係についての考察はここで終わりにする。次は「恋愛の排他性」について考えていく。

恋愛の排他性をどう捉えるか

恋愛関係の特徴は、全人類とその関係を結べないことにある。
たいていは一人の人に限られる(関係者全員の同意を得た上で複数のパートナーと関係を結ぶポリアモリーや、一夫多妻などの形もある)。
特定の誰かと恋愛関係を結ぶ、ということは、それ以外の人との恋愛関係の可能性を消すことになる。そういう意味で恋愛には「排他性」がある。

ここでは、「恋愛の排他性と所有欲の違い」「恋愛と友情の違い」について、フロムの記述を引用しながら考えていく。

恋愛の排他性と所有欲の違い

先に述べたように、恋愛関係を結ぶのは特定の限られた人だけである。
恋愛関係にはそうした特性があるからか、パートナーに対して所有欲や独占欲・嫉妬心などと結びつきやすい。

「独占したいという気持ちがあるからこれは恋愛感情なのかもしれない」
「好きだからこそ嫉妬する」
というような意見はよく目にする。

しかし、所有欲や独占欲・嫉妬心が強くなりすぎると、過度な束縛やハラスメント・ストーカー行為などに繋がっていく危険もある。それも本当に「愛」と言ってよいのだろうか。恋愛の排他性と所有欲は区別した方がいいのではないだろうか。

そこでフロムの記述を見てみよう。

たしかに異性愛は排他的である。しかし異性愛においては、人は相手を通して人類全体、そしてこの世に生きている者すべてを愛する。異性愛は、一人の人間としか完全に融合することはできないという意味においてのみ、排他的なのである。異性愛は、性的融合、すなわち人生のすべての面において全面的に関わりあうという意味では、ほかの人にたいする愛を排除するが、深い兄弟愛を排除することはない。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』 紀伊国屋書店 1991 p.89

≪注≫『”異性愛”と”兄弟愛”について』
・ここで書かれている「異性愛」は、本記事では「恋愛関係」として考えます。
(フロムは同性愛に対し差別的な見方をしている側面があるため、『愛するということ』を読まれる方は注意。)
・「兄弟愛」というのは、血のつながった兄弟ということではない。
フロムは「あらゆる他人にたいする責任、配慮、尊重、理解(知)のことであり、その人の人生をより深いものにしたいという願望のこと」と記している。隣人愛のようなものを想像してもらえるとわかりやすいかもしれない。


フロムは「異性愛においては、人は相手を通して人類全体、そしてこの世に生きている者すべてを愛する」と言っている。
これはつまり、パートナーのことだけを愛すのではなく、パートナーを愛すこと、相手との関わりを通してすべての人(や生き物)を愛する、という状態が異性愛(恋愛)ということだ。

そのため、「パートナーのことは大切にするが、それ以外の人はどうなってもいい」というような独占欲みたいなものは恋愛とは認めていない。

相手の人生のすべての面において全面的に関わりあうというのが恋愛であり、全ての人に全面的に関わるのは不可能、という意味で恋愛は排他的だと言っている。
確かにそうだ。一人の人と本当に全面的に関わろうとすると大きな労力・時間が必要になる。常に相手と対話し続け、共に幸福になるために歩むというのは並大抵のことではない。

引用文には「性的融合」についても書かれているが、相手がそれを望んでいないのであれば、その人の人生に性的なかかわりは必要ない。つまり、性的関係がなくとも、恋愛関係は築けると考えてよいのではないかと思う。

恋愛と友情の違い

次は恋愛と友情の違いについて考えていく。
恋愛でも友情でも「好き」という感情は共通している。
しかし、人は恋愛と友情を区別している。

恋愛感情が分からない、と言う人は、「好き」をどう区別したらいいのかが分からないということでもあるのではないだろうか。

これについて、フロムの言葉から考えていきたい。

異性愛には、もしそれが愛と呼べるものなら、一つの前提がある。すなわち、自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあうということである。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』 紀伊国屋書店 1991 p.90

愛は本質的には、意志にもとづいた行為であるべきだ。すなわち、自分の全人生を相手の人生に賭けようという決断の行為であるべきだ。(中略)
誰かを愛するというのはたんなる激しい感情ではない。それは、決意であり、決断であり、約束である。もし愛が単なる感情にすぎないとしたら、「あなたを永遠に愛します」という約束にはなんの根拠もないことになる。

エーリッヒ・フロム『愛するということ』 紀伊国屋書店 1991 p.90-91

以上を踏まえると、フロムは愛についてこのように考えている。

  • 自分という存在の本質から愛し、相手の本質と関わりあう。

  • 愛は意思にもとづいた行為(決断の行為)であるべき。

言い換えると、深い自己理解と他者理解、また強い意志・決断が愛には必要だということだろう。

愛をそのように捉えると、友情にはそこまでの深い理解と強い意志は必ずしも必要ない、ということになるだろう。
友人関係にもさまざまなレベルがあるが、基本的に友人関係は簡単に解消できるものであり、相手の人生の責任を負う必要がない。
そんなに相手のことを理解していなくても、表面上の付き合いで仲良くなることもできるし、相手が窮地に立たされた時に必ずしもそれを救わなければならないという責任はない。また、死ぬまで一緒にいるという誓いを立てる必要もない。

つまり、”恋愛の好き”と”友情の好き”を迷ったとき、相手の人生に自分の全てをかけて関わることができるか、相手のことを一生かけて理解しようとする覚悟があるか、ということを基準に考えてみるといいかもしれない。
もちろん、最初からそこまでの覚悟を持つことは難しいかもしれない。相手と一緒に過ごしていく中で、少しずつそのような強い気持ちが芽生えてくるかどうか、自分自身を観察していけばいいだろう。

少なくとも、『愛するということ』から恋愛を考えるのであれば、性的に惹かれるかどうかというのはそこまで意識しなくてもよいと思う。
相手が愛によって性欲がかきたてられ、どうしても肉体関係を結びたいと思うのならうまくいかないだろう。
しかし、恋愛において肉体関係を重視している人ばかりではないので、自分と同じような恋愛観を持っている人や、対話の上でお互いに優しさにあふれたかかわりをしようと決意している人を探せばいい。
自分は『愛するということ』を読んで、そういう結論に落ち着いた。

おわりに

フロムの考える愛(恋愛)についてもう一度簡単にまとめておく。

  • 愛と性欲は切り分ける。

  • 愛が性欲をかきたてることもあるが、それ以外の強い感情(ネガティブなもの)が性欲をかきたてることもある。

  • 愛が性欲をかきたてるときには、ネガティブな感情は一切なく、そこに優しさがある。

  • 恋愛は、相手の人生のすべての面において全面的に関わりあうこと。

  • 愛は意志にもとづいた行為である。

このように考えると、恋愛感情と性的欲求は区別したほうが良いように思う。また、恋愛感情とは相手の人生の全てにおいて全面的に関わりあう覚悟があるかどうか、で判断するといいのかもしれない。

相手の価値観にもよるが、恋愛おいて性的な関係が必ずしも必要ではない、とすると、恋愛的惹かれや性的惹かれが無い・あるいはあまり感じないというアロマンティック・アセクシュアルの人であっても、良好なパートナー関係を築ける可能性は十分にあるのではないかと思う。

性的な関係以外のところで、どれだけ相手のことを思いやり、愛情を表現するかが肝になりそうだ。愛情表現や、愛を感じる瞬間は多様である。その多様な愛の形をどれだけ感じ取れるか、その感受性をはぐくむことも大切なことだろう。

実際に私はAro/Ace(アロマンティック・アセクシュアルスペクトラム)を自認しているが、今ありがたいことに全面的に関わりたいと思う相手がいる。そこに恋愛的な惹かれや性的な惹かれを明確に感じられていないが、それでも自分なりの愛情表現を忘れず、今後も対話を重ねながら私たちの幸せを探求していきたいと思う。

この記事を読んで、少しでもあなたの恋愛感情の概念が拡張すればとても嬉しい。



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