雛杜雪乃は生きながらに死んでいる
雛杜雪乃は死んでいない
クリエイター系Vとしての転身(活動割合の切り替え?)を結構前から考えていました。理由として大きいのはやはり「僕自身が面白い訳では無い」と痛感することが多かったからです。
メンタル的にも何かと比べる事はいい事ではありませんが、発展や立ち位置を知る為にも、数字はやはり指標なのです。
Vtuberの世界というのは、見る側に分かりやすく作られています。
トークが巧みなモノ、感情表現が豊かなモノ、コミュニケーションが上手いモノ、歌が上手いモノ、絵が上手いモノ、人間関係が潤滑なモノ、ステージを作り上げるモノ。
それぞれ、自身が選んだ演目をステージで披露できる。
本質を顕にしてきらめく様は、一言では言い表せません。
だからこそ、観客席で、舞台裏で、準備室で、それらを目にして思うのです。
ーー僕はソレらを持っていない。
世界というのは平等だ。未知既知問わず数多の法則が絡み合い、不平等に感じさせる混沌が世に満ちている。
ディスプレイを跨いだ世界でもそれは変わらない。しかし、同じく舞台に立つモノとして、多種多量な努力の結果だということは身に染みている。
つまるところ、僕は「演者」であるには実力不足なのだ。
だが、そんな僕でも驕れる部分がある。人並みより優れていると、自信を持って誤れるモノがある。
空白の世界に、あるモノとして産み落とすこと。その始まりを綴れること。
「演者」としては実力不足だ。しかし、僕は「演者」であり「創作者」として生まれた。
どちらを捨てる事も、どちらかを捨てる事もまた出来ない。
だからこそ、僕は「どちらでもある存在」になろうと思った。
クリエイターは、その足跡こそが命の証です。
書きかけの原稿、描きかけの絵画、歌い途中の曲、演目中の戯曲が「半ば」と捉えられるように、残し終えた足跡だけが、命そのものです。
死んでいなくとも生きてもいない。そんな僕の心拍を誰かに届けるためにも、僕は僕として筆を取り、舞台にも立つ。
終幕の合図はまだ遠い。
だって、君達はまだ、僕ーー「雛杜雪乃」が何者であるのかも、知ってはいないでしょう?
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