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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月11日】


盛岡藩主・南部重信の厄払い

十一日 雨昨夜中より大雨、一櫛引八幡来ル十五日就御祭礼、御神酒両樽八幡三位以使僧上、取次高橋惣左衛門、一大殿様御厄払御立願、先達永福寺就申上候、早池嶺山へ十三人参、此御初尾金弐両弐歩遣銭共妙泉寺へ遣。

盛岡藩雑書 四巻 74P

延宝5年8月11日

昨夜から大雨が降り続いています。

「櫛引八幡宮」の祭礼が、15日に行われます。

神酒(おみき)2樽を、
八幡三位(僧侶の地位)の僧に託して、
送り届けてもらいました。

取次役(神事の手配・担当者)は、
「高橋惣左衛門」が務めました。

南部藩の高位・高橋惣左衛門さん。
(AIで友人の顔を混ぜました。)

大殿様(南部重信1616〜1702)の、厄払いと立願(神仏に願いを立てること)について、永福寺の先達(導師)に申し上げました。

13名が早池嶺山(はやちねさん)に参拝します。

初穂料(しょほりょう、神仏に捧げる金銭)として、2両2分(庶民の年収くらい・当時の蕎麦562杯の価値)を遣わし、妙泉寺にこの金銭を送った。


今年も早池嶺山へ行きました

桂泉へ七人参、此御初尾造銭共一人三百文宛、右三位使僧=誘御代官中村作左衛門・佐々木三郎兵衛へ遣、同十和田へ七人参、御初尾造銭共三貫五百文遣、法華一部は於東福寺読誦之筈、一櫛引八幡へ七人、御初尾遣銭共弐實百文、此外神馬一疋之代壱歩、右三位使僧=渡ス、一三戸八幡へ七人参、御初尾弐貫百文、此外神馬一疋ノ代金壱歩、是八御名代北九兵衛二渡ス、右八高橋惣左衛門奉之鶴之助様御立願、御代参七人宛三ヶ年之御立願、早池嶺山へ当年·て御結願、

盛岡藩雑書 四巻 75P

「桂泉神社」(現 天文寺)に、代表者7人が参詣しました。各人に300文(当時で蕎麦18杯分の価値)が与えられました。

「右三位使僧」は、「中村作左衛門」と「佐々木三郎兵衛」を代官として派遣しました。

代官・佐々木三郎兵衛さん。
(AIでホリエモンの顔を混ぜました)

「十和田神社」にも、7人の代表者が参拝し、
3貫500文(当時で蕎麦218杯の価値)を奉納された。

また、「東福寺」で法華経の読誦がされる予定です。


「櫛引八幡神社」にも、代表者7人の参詣し、
200文(当時の蕎麦12杯の価値)を奉納しました。

また、神馬1匹(神に捧げる馬)の代金として、壱歩(当時の蕎麦6杯の価値)が渡された。

「三戸八幡神社」にも代表者7人が参詣し、
2貫100文(当時の蕎麦131杯の価値)を奉納しました。

神馬1匹の代金として、壱歩が渡されました。
この奉納金は「北九兵衛」に渡しました。

北九兵さん。
(AIで友人の顔を混ぜました)

「高橋惣左衛門」が奉納した、
「鶴之助様」の御立願により、
7人の代参者が3年間にわたり参詣しました。

今年は、早池嶺山で、結願(奉納の終わり)が行われました。

弥之助様は、去年から病気

八弥様去々年就御不例、三ヶ年御代参一人宛、是亦当年就御結願、右御両人様御初尾弐歩、妙泉寺へ被遣、是も惣左衛門奉之、右何も御金奉行方留書=有

盛岡藩雑書 四巻 75P

「弥之助」様は、前年から病気で、参詣に参加できません。そのため、代理人が3年間の参詣を行いました。今年はその結願が行われました。

二人の僧侶には、奉納として、二歩(当時の蕎麦187杯の価値)が渡され、妙泉寺に届けられました。これもまた「高橋惣左衛門」が奉納しました。

神馬と櫛引八幡神社

一去々年御年えつく候付、
一来ル十五日、就八幡御神事、櫛引八幡へ御神馬青毛三歳、三戸八幡へ鹿毛三歳、此両疋今日御馬方千葉治兵衛付、次人足四人=為牽三戸へ遣

盛岡藩雑書 四巻 75P

去々年、御年(恒例)行事がありました。

十五日には、「八幡神社」の御神事があります。

そのため、「櫛引八幡神社」に青毛(黒っぽい毛・三歳)の御神馬を奉納します。「三戸八幡神社」に、鹿毛(茶色い毛・三歳)の御神馬を奉納いたします。

この二頭は、本日、馬方(馬の管理をする役人)の「千葉治兵衛」が付き添い、「三戸八幡神社」へ送り届けます。人足四人(馬を引いたりする労働者4人)が馬を引きます。

馬を管理する役人・千葉治兵衛さん。
(AIで友人の顔を混ぜました)


福島の小者が病で亡くなった

一大殿樣当年御下之砌、相煩福嶋=罷有候川口弥兵衛預御小者喜兵衛儀、福嶋御代官衆養性被申付候へ共不相叶、当月五日申之刻相果候付、浄土衆到岸寺=て土葬=仕置候由、御宿安斉一郎右衛門所より御横目本堂杢兵衛迄書状越候付、則老中より一郎右衛門所へ返状遣ス、此飛脚之者-御金弐歩被下、右之返状共-本堂杢兵衛所へ、焚綿忠右衛門より一郎右衛門遣候、飛脚者=渡候様ニと申遣ス

盛岡藩雑書 四巻 75P

大殿様(南部重信1616〜1702)が、
今年 福島にお下りになった際のことです。

「川口弥兵衛」が「喜兵衛」という小者(大名に仕える低い身分の召使い)を預かっていました。小者は病にかかりました。

福島の代官衆が療養を申し付けたものの、
功を奏せず、今月5日の申の刻(午後16時頃)に亡くなりました。浄土宗の到岸寺で土葬に付されたとのことです。


御宿の「安斉一郎右衛門」が、御横目(監視役)の「本堂杢兵衛」に書状を送りました。

書状の内容は、亡くなった小者「喜兵衛」に関するものです。

「安斉一郎右衛門」から「本堂杢兵衛」に送られ、その返事として老中が書状を返しました。

この書状を担当した飛脚の者には、金二歩(当時で蕎麦12杯の価値)が与えられました。


雲雀を贈るリスト

一御鷹之雲雀被進候覚
一雲雀拾 慶養院様へ、一同拾 妙寿院様へ、一同拾 けんとう院殿、一同拾 ていしん院殿、一同拾 隆高院殿

盛岡藩雑書 四巻 75P

御鷹(鷹狩り)で捕らえた雲雀(ひばり)を進上(記録)すること。

(以下、記録)

・「慶養院」様(女性)に雲雀を十羽贈る。
・「妙寿院」様(女性)に雲雀を十羽贈る。
・「けんとう院」殿(男性)に雲雀を十羽贈る。
・「ていしん院」殿(男性)に雲雀を十羽贈る。
・「隆高院」殿(男性)に雲雀を十羽贈る。

高位の方「慶養院」様
(AIで松田聖子さんの顔を混ぜました。)


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