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盛岡藩雑書・藩政日誌の現代語訳【1677年8月3日〜6日】




8月3日 南部利幹の馬の交代

三日晴れ  
大殿様去月廿五日江戸御発足被遊、腰谷御泊之由御飛脚今朝来着、此御地御着八今七日之由申来ル  、今日花巻同心申付、御機嫌窺として道中迄御飛脚=遣ス、大殿様御下向=付て、御迎馬三疋、鬼柳迄御馬責斉藤半九郎付遺之、但御馬牽六人

延宝5年8月3日 晴れ

大殿様(南部利幹)は、
先月の7月25日に江戸を出発され、
腰谷(調べたけど分からない)に、
泊まられたとのことです。

この情報は、今朝、
飛脚(速達の使者)によって届きました。

そして、大殿様(南部利幹)が
盛岡に到着するのは、
8月7日頃だと伝えられています。  

今日、花巻(岩手)の同心(警察)に命じて、
大殿様(南部利直)のご機嫌を伺うために、
道中まで、飛脚を派遣しました。  

大殿様(南部利幹)が帰郷されるにあたり、
迎えのために、3頭の馬を用意しました。
馬を引く人は、6人を手配しました。

その馬の管理者である「斉藤半九郎」は、
鬼柳(岩手県北上市)で、
馬の管理、または交代を行います。

当時の東北は、原生林で溢れていたのでしょう。


8月4日 山中で老人の首吊り死体

四日一川目山=て六十計之老人くひくゝり居候、山守見付候付、御代官奥瀬七郎左衛門披露、死骸かい道へ出し置、主無是候八ㄟ、一両日も差置可申旨申渡之

延宝5年8月4日

川目山(岩手県)で、
60歳ほどの老人が首を吊っているのを、
山守(山の管理者)が見つけました。

そのため、
御代官(地域行政)の「奥瀬七郎左衛門」に報告し、死体を街道に置きました。

身元が不明であるため、しばらくの間、
そのままにしておくよう指示しました。

彼は、自ら死を選んだのでしょうか。

狼の群れの最後尾は 老いた狼です。
餌も満足にもらえません。
体力が尽き、やがて
自ら群れを去って 山で死にます。

昔の日本人もそうだったのかなと思います。


8月5日 南部利直が帰城

五日 晴  
大殿様今晩鬼柳=御一宿、明六日=御城着可被遊由、道中吉岡より御飛脚=て申参、依之高知之面々如毎年御迎=、見る前町迄罷出候様=と被仰下候付、則以手紙右之趣申触之一鬼柳へ酉ノ上刻御着座、御一宿被遊之由、同所より黒沢伝兵衛注進之

延宝5年8月5日 晴れ

大殿様(南部利直)は、今晩、
鬼柳(岩手県北上市)で一泊されました。

明日6日には、
お城に到着される予定であると、

道中の、吉岡(宮城・実話を元にした映画 「殿 利息でござる」の場所)から、飛脚が報告してきました。

それにより、
高知の面々(藩主の家臣たち)には、
例年通り御迎えのために、(家臣たちは 毎年 大殿様(南部利直)が帰城されると 儀式的なお迎えをする)

見る前町(南部利直が城に到着する前に、立ち寄る場所)まで、出迎えるようにとの命令が下されました。

すぐに、手紙でこの内容を通知しました。

また、鬼柳(岩手県北上市)には、
酉の刻(午後5時から7時の間)に到着し、
一泊されたことを、同所(鬼柳)から、「黒沢伝兵衛」が報告してきました。

○「黒沢伝兵衛」は、鬼柳での、大殿様の様子を確認し、城や関係者に知らせる役割を担っていたと考えられますね。江戸時代の大名の移動が、いかに厳格に運営されていたかが読み取れる内容ですね。


8月6日 業務連絡

六日 曇巳/刻ョリ小雨夜中=至晴  一大殿様鬼柳とらノ下刻=御発駕、華巻へ辰ノ刻=御着城被遊之由、黒沢伝兵衛・四戸金左衛門より書状=て申越之、但継飛脚也  七左衛門・治太夫登城、兵助八病気=て無登城  殿樣申ノ上刻 御着城、御機嫌克 上々樣方へ御対顏被遊  一櫛引八幡御神事御名代中野伊織=兼て被仰付候へ共、伊織事指合有之=付、北九兵衛今日被仰付之

延宝5年8月6日 曇り。

巳の刻(午前9時頃)から小雨が降り、
夜中に晴れました。  

大殿様(南部利直)は、
鬼柳(岩手県北上市)を
寅の刻(午前4時頃)に出発し、
辰の刻(午前8時頃)に
花巻に到着されたとのことです。


このことは、
「黒沢伝兵衛」と「四戸金左衛門」
からの書状で報告されました。

ただし、この報告は
継飛脚(中継の飛脚)を通じて届きました。  

「七左衛門」と「治太夫」が登城しましたが、
「兵助」は病気のため登城しませんでした。  
(彼らは 本日記を書いてるメンバーです。)

殿様(南部利直)は、
申の上刻(午後4時頃)に城に到着し、
ご機嫌は良好で、上様方と対面されました。

櫛引八幡宮(山形県鶴岡市)での
神事については、

「中野伊織」が
名代(代理人)として仰せつかっていましたが、

「中野伊織」の都合がつかないため、
「北九兵衛」が、今日その任を仰せつかりました。

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