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人文学系研究者の頭の中:『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』

 まず、はじめに断っておくが、『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』(阿部幸大著)は、素晴らしい本である。私は理系の研究者なので、科学論文のアカデミック・ライティングについては、多少の経験がある。しかし、人文学系の論文の書き方については、これまで漠然としか把握できていなかった。『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』を読んだ後では、人文学系の論文・著作の執筆についての解像度がとても高くなった。また、「論文とは、アカデミックな価値をもつアーギュメントを提出し、それが正しいことを論証する文章である」との記述には感銘を受け、科学論文の執筆にも積極的に取り入れるべきだと感じた。

 他方、『まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書』は、私が人文学系の一部の論文や著作に感じていた違和感を明確に意識化してくれた。本書には、「人文学の機能のひとつは「常識」を刷新することだ 」との記述がある。これは、既存の共通の価値観に挑戦することを意味する。古来、哲学や神学から続く人文学系の発展をみると、「常識」を刷新することで新しい考えや価値観が生まれてきた。しかし、本書におけるアーギュメントのつくり方とその例を読んで、こうも納得してしまった。「なるほど、人文学系の(一部の)研究者は、問題がないところに問題を見出している、つまり、火のない所に火をつけて回り、それを自ら消火するマッチポンプをしているのだ」と。

 科学者の中にもトンデモな主張をする者はいるが、その主張が正しいかどうかは、ほとんどの場合は原理的に検証可能である(実施可能かは別にして、少なくとも検証するための実験をデザインすることができる)。そして、科学における「常識」の刷新は、観察と実験と事実によって行われる。その時代のイデオロギーによって「常識」の刷新が妨害されることはあるが、最終的には、観察と実験と事実によって裏付けられた「現実」が残る。なぜなら、世界の物理法則は人の思惑とは無関係だからだ。それに対して、人文系の研究はどうだろうか。私が感じた違和感が不可避的に内包されているのならば、どのようにしてマッチポンプの罠を避けることができるのだろうか。研究で指摘されている問題の本質とは関係ない、隠された価値観やイデオロギーに基づいて主張されたアーギュメントに価値はあるのだろうか。今の私には判断できる材料がない。


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