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大学院修士・博士課程は自動車学校と同じであるべきだ

 私が某国立大学の大学院生だった頃、所属していた研究室の指導にとても不満があった。比較的「放牧」型の研究室で、研究テーマは自分の興味に合っていて問題なかったのだが、実験方針が行き当たりばったりで、系統だった指導を受けることはできなかった。むしろ、指導者が提案する素人目にも見込みのない実験を躱すのに労力が割かれる始末だった。結局、自分で「なんとかする」以外なかったのだが、いつも「なんで授業料を払ってまで、こんな理不尽な目に合わなければならないのか」と思っていた。少なくとも、実験手技の系統だった指導を受けていれば、もっと効率よく実験が進められたと思う。ただ、私が所属していた研究室が特別だったわけではなく、そのような指導は、当時は珍しくはなかったのだろう。その後、いくつかの研究室を渡り歩いたが、実験手技に関してはシステマティックに指導する体制が整っていたところもあったが、研究の進め方や論文の書き方について、系統だった指導を行っている研究室には、ついぞお目にかかったことがない。

 学位を取った後、学生を指導する立場になって、「大学院修士・博士課程は自動車学校と同じであるべきだ」との信念を持つようになった。自動車学校は、学科・実技ともにカリキュラムが画一化・効率化されており、普通の人であれば、3〜4週間程度で免許が取れてしまう。しかし、安全確認の仕方から、エンジンのかけ方、クラッチのつなぎ方(当時はマニュアル車しかなかった)、坂道発進の仕方まで0から独学となると、才能ある一部の人以外、学科・実技試験に一発で合格することは難しく、時間も長くかかるだろう。自動車学校で運転技術を系統だって習うのと、指導者不在のまま野原で自己流で習得するのとでは、免許を取得できるまでの効率に雲泥の差があるのだ。

 博士号取得を目的とする大学院における指導についても同様に、研究・実験のデザインの仕方、実験手法の習得や論文の書き方については、画一化された効率のよい方法論に従って指導するべきだ。これは、画一化されたつまらない研究テーマで学位を出すべきだと主張しているのではなく、研究の本質以前のシステマティックに指導できる部分は、できるだけ効率的に指導するべきということだ。テーマの見つけ方や研究の重要性の目の付け所などは、試行錯誤を通じて科学的センスを育む必要がある面もあるが、科学的・論理的な思考方法や実験の作法は、科学的水準・基準に準じるものである(なぜなら、それが科学だからだ)。大学院時代は、あくまでも研究者になるための基礎トレーニング期間であり、研究者としての本当の勝負は、博士号を取得した後にはじまる。

 画一化された教育指導は個性や才能を潰すとの意見もあるだろうが、筆者は「教育とは平均に近づけるために個性を潰すことであり、教育で潰されないものが才能である」と考えている。また、自分で失敗し、試行錯誤することでトラブルシューティングなどの解決力を育むとの意見もあるが、すでに確立された実験手技の習得など研究の本質以前の問題にまで、そのような精神論を持ち込むべきではない。本当にシステマティックな実験指導はトラブルシューティングも含んでいる。実験キットのマニュアルが良い例だ。

 博士号の取得と運転免許の取得は同じである。自動車の運転では、免許取得後にペーパードライバーになるか、街乗りで満足するか、F1レーサーを目指すかは、努力と才能次第である。学位取得後に、アカデミアで一流の研究者を目指すか、そこそこの研究者で満足するか、アカデミアを離れて企業に就職するか、教育の方向に進むかは、運と金と才能と努力と折れない心次第である。日本の大学における研究の主力は未だ大学院生だ。大学院における研究教育指導体制が前時代的であり、効率化に無頓着でいることも、近年、日本の科学研究の競争力が落ちている一因ではないかと思っている。前時代的な指導では、優秀な学生ほどアカデミアから逃げて行く。大学院での指導体制が、ポリシーあるシステマティックな指導によって、優秀な学生が研究に集中できるものになってほしい。

 画一的な指導だと、優秀な学生がスポイルされてしまうのではないかという懸念もあるが、その心配はない。やる気のある優秀な学生には、指導を乗り越え、さらに先に行く余力がある。指導者としては、その余力の邪魔をしない(足を引っ張らない)ことが重要だ。

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