見出し画像

創作)アメシスト・メモリー


◇◇

「やっと着いた。ここが、〝幻の村〟か」

木製の標識板には旧字体で「叉鬼村」と彫られている。塗装もされていないその標識はいかにも古めかしく、不気味さを物語っていた。僕は覚悟を決めてその文字を睨みつける。

県道〇号線から山に分け入り、獣道を三十分ほど進んだところにその集落は存在していた。

見渡す限りの青田にはまだ発育途中の稲の隙間から太陽の光が水面に反射してきらきらと煌いている。所々に家屋とみられる建物や農具倉庫と思しき半ば倒壊しかけたぼろぼろの建物も、まさしく山間部の農村といった風景だ。

廃村だと聞いていたのだが、人々の営みが感じられる。

この村が〝幻の村〟と言われるようになったのは約9年前。例の動画がインターネットの投稿サイトに投稿されたことがはじまりだった。それは、投身自殺する様子をヘッドカメラの一人称視点で撮影されたものだった。その動画は翌日には削除されたが、瞬く間に拡散されることになる。

動画は崖の外に一歩踏み出すところから始まっていた。足元を見ながらゆっくり一歩ずつ進み、崖の外に一歩踏み出した瞬間に視界が反転し、同時に暗視機能の緑色の画面に切り替わる。そして、直下に続くひたすら深い洞窟を落下し続ける映像が三分ほど続き、激しい視界のブレと衝撃音を最後に映像は途絶えている。

投稿者は誰なのか、どこで撮影されたのか。インターネットに入り浸る人々が全力で探した結果、その洞窟はⅹ山の中腹に位置する叉鬼村にあることが判明。叉鬼村は遥か昔にⅹ山の噴火で壊滅的な被害を受けたために村人たちは全員山を下り、集落は放棄された。今では火山灰もそのままに残された古い廃村と成り果て、地図からもその姿を消していた。

しかし、ある好奇心旺盛な一般人Aがその場所を訪れると、その村には人々の生活の営みがあったという。誰にも知られないまま、山奥にひっそりと存在していた村はまさに〝幻の村〟であった。

実際にこの目で見て、やはり幻のようだと思った。どんな小さな市町村でも1件はコンビニがある現代で、この村は全く違うゆっくりとした時間が流れているようだった。

話は変わるが、僕には娘がいる。娘は先天的な運動機能障害を持っており、生まれてからほとんど家の外に出なかった。当然、学校にも行かなかった。そんな娘が、あの日はやたらと出掛けたがったのだ。家にいることに飽きたという様子には見られず、とにかく外に行きたいようだった。驚きはしたものの、娘が自ら外出を希望することなど今まで一度もなかったため、ⅹ山の展望台までドライブに連れていった。そして、展望スポットでジュースを買いに行ったまま、娘は戻ってこなかった。それが今から9年前の出来事だ。

9年前、ⅹ山という共通点が心の奥で強く引っ掛かったため、有給をまとめて消化し、この地を訪れたのだった。〝例の動画〟の存在をもっと早くに知っていれば、もっと早く、この手がかりに辿り着けたのだろうか。いや、今は考えても仕方がない。僕は考え事をしていると意識がどこか宇宙に行ってしまうきらいがある。よくない癖だ。頬を叩(はた)き、意識を現実に戻す。

固められた泥土の畦道では、生い茂る雑草の所々に彼岸花の赤が映えている。

 しばらく歩いたところで不意に人の気配を感じて振り向くと、麦わら帽子をかぶった女の子が立っていた。

 いつから後ろにいたのだろう。アンバーの美しい瞳がまっすぐにこちらを見ている。年は14、15才くらいだろうか。ワンピースの白が眩しい。

「洞窟を見に来たのなら夜世(よよ)が案内してあげましょうか」

明瞭(はっきり)とよく通る、鈴の音のような声だった。

「……なぜ、僕が瀧を見にきたとわかったのかな」

 その金色の瞳に心の中を見透かされているような気がして、無意識に後ずさってしまう。

「考えなくてもわかりますよ。おじさんみたいなお客さんは、だいたい洞窟を目指してくるので」

そう言うと少女は、ふ、と微笑んだ。

「夜世と言います。ちなみに夜世は心が読めるので、おじさんのお名前も判りますよ。田中雨季(たなかゆうき)さんというのですね」

背筋が凍りつく。

「冗談です。夜世は人の心なんて読めません。名札を読んだだけですよ。」

言われてはじめて、首から名札を下げたままだったことに気付く。最近はどこへ取材に行くときでもスーツ姿だ。今日も朝から仕事があり、そのままここまで来た。移動時にはいつも名札を胸ポケットに収めるようにしているが、今日はどうも忘れていたらしい。

 それにしても、先ほど夜世は、洞窟を見にくる人はあまり珍しくないというようなことを言っていた。しかし、それにしてはネットに載っている情報が少ないような、と思ったが、いや、と考え直す。

 観光地として有名になったことでその地域の住民の生活に支障が出ていることは日本の観光業が抱える大きな問題だ。あえてネットなどに載せず有名にしないという、ここの自治体の方針なのだろう。有名になることが必ずしもいいとは限らない。

 あるいは〝例の動画〟が有名になってしまったことでインターネットサーバーが過剰にフィルタをかけ、〝幻の村〟に関連する情報が軒並み削除されてしまったのかもしれない。

「あれ、夜世ちゃんじゃない。こんな所にいるなんて珍しいわねえ。もしかして、またお勉強を抜け出してきちゃったの?」

 道の向こうから作業服を着た五十から六十歳とみられる女性が歩いてきた。農作業帰りらしく、首元に巻かれた手ぬぐいは泥だらけだ。

「あら、そちらの方は……」

 夜世に話しかけていた女性は「今気づいたびっくり」という風にこちらを見た。女性は僕の頭から爪先まで品定めするように見つめてくる。

「僕は田中雨季(ユーキ)と申します。東京で記者をやっている者で、ここには取材で来ました」

 嘘だ。僕は記者などではないし、取材などやったこともない。商社勤務のしがないサラリーマンだ。しかし、正直に「娘を探しに来ました」などと言ったところで困惑させてしまうだけだろう。かといってこんな山奥に来るのには相応の理由がなければ怪しい。その点、取材という動機はとても自然かつ友好的な印象を与えると思った。

スーツ姿で取材と言っても怪しいかもしれないが、今日は大きめのカメラを首から下げている。記者っぽい雰囲気は出ているのではないか。

「今日のお勉強は全て終わらせてしまいました。今はこのおじさんが道に迷っていたみたいだったから、夜世が案内してあげてるんです」

「あらまぁそうだったの。何もない田舎だけど、取材するものなんてあるのかしらね」

 さっさと帰れと言っているようにも取れるセリフだったが、口調や態度から敵意は感じられない。おそらく、本当に思ったことを口に出しただけなのだろう。

 人里から遠く離れた集落など、閉鎖されたコミュニティでは外から来た者を敵と認識し排除しようとする心理が働く。極端な例では、集落に足を踏み入れたとたんに殺されてしまう場所もあるという。山奥にあるこの村ももしかして、と身構えていたのだが、どうやら杞憂だったらしい。ところどころ現代的な設備が整っているらしく、村の外と交流があることが伺える。山奥とはいえここのコミュニティは完全に閉鎖されていたわけではないようだ。

「じゃあね夜世ちゃん、暗くなる前におうちに帰るのよ」

夜世にそう言い残し、作業服の女性は去っていった。

太陽はまだ南中すらしていないというのに気の早いことだ、と思ったが口にはしなかった。

「娘さんのお名前、なんという名前なのですか」

 夜世は悪戯っぽい笑みを浮かべこちらを見る。

「なぜ、」

 なぜ知っている。僕は娘についてはなんの情報も漏らさなかったはずだ。やはり、夜世は心を読む力があるのか。いやしかし、僕は心を読むなんてそんな非科学的な物は信じない。

「夜世は心を読んでいるわけではありませんから、安心してください」

 心を読んでないのにそのセリフが出てくる訳がないと思うのだが……

 冗談だかなんだか判らない夜世とのやり取りのうちに、僕が夜世に抱いていた恐怖心はどこか遠くにいってしまったようだった。

 

◇◇

 

夜世に案内され着いた場所は、斜面に掘られた小さな祠だった。祠の奥は洞窟になっており、その奥は光さえも届いていない。

夜世いわく、この洞窟が瀧へと続いているらしい。

「ここには照明を設置したりはしないのかい」

「この道を通るのは私だけなので、必要がないのです。私は夜目が利く方ですから。たまにおじさんみたいなお客さんが来るけれど、みんな自分で色々と準備しているから何も問題ありません」

 まぁ、こんな山の中まで来るのだから、懐中電灯くらいは最低限の装備として誰でも持参してくるだろう。

夜世は、暗くても平気なのだろうか。夜目が利くから大丈夫といっても、人間は本質的に暗闇を恐れる生き物だ。

「夜世は暗いのには慣れているから大丈夫です。あと、ここはおじさんが思っているほど暗くはないはず。よく見てみてください」

 夜世の言っていたとおり、奥へと進むにつれて暗闇に目が慣れていき、すぐに何の支障もなく歩けるほどになった。

「ここは美しい場所だね」

「残念ですが、目的地はもっと先ですよ。ここには土しかありせん。土が美しいだなんて、どうかしているのでしょうか」

 夜世は思ったことをずばずば言ってくるタイプらしい。

「えっと、光なんて全く届いてないはずの洞窟で、なんで目が見えるのか考えてたんだ。よく見たらそこかしこでキラキラしているだろう。あのキラキラはビオタイトっていう結晶なんだが、そのビオタイトが光を反射することで洞窟内が明るくなっているんだ。ビオタイトは栄養価の高い土に生成されることが多くて、だから、綺麗だなって思ったんだ」

ビオタイトだけじゃない。クリスタル(石英)の少し大きめの結晶も見られる。このあたりは火山活動で隆起してできた土地のようだ。よく調べたらダイヤモンドやルビーなんかも見つかる可能性がある。

「おじさん、石に詳しいのね」

僕は宝石鑑定士になりたかった。小学生のころの夢だ。結局、就職はより無難な方向へと進まざるをえなくなり、僕は鑑定士の夢を諦めた。今ではただの宝石好きのおじさんだ。

「要するにおじさんは、自然が好きな人なのですね。夜世には理解できませんが、人の好きなものを否定してはいけないとお姉様から教わりました」

 僕は別に、土が好きなわけではなくて、宝石とか鉱石とかそういう神秘的なものに惹かれるだけなのだ。

「そろそろ道がでこぼこしてきますので、余計なことを考えていると躓きますよ」

 夜世の警告どおり、余計なことを考えていた僕は顔面から派手に転んでしまった。

 泥と土だった地面が突然礫岩質に変わったために足を取られたようだ。

 大の字でうつ伏せに倒れる僕を、振り向いた夜世が呆れたように見下ろしているのがわかる。視線が痛い。

「土が大好きなのはよく分かりましたから、ほら、早く立ってください。もうすぐ洞窟の奥に着きますので」

 僕が立ち上がるのを待たずに夜世はさっさと行ってしまう。スーツについた砂を払い、今度はもう転ばないように足元を気にしながら、夜世を追うのだった。

 

◇◇

 

「ほら、ここが誘泣の瀧ですよ」

 瑠璃色の絶景が、目の前に広がっていた。地上から微かに届く光が地下に差し込み、絶えず落ち続ける水を青く照らしている。

「驚いたよ。本当にこんな所に滝があるとはね。いやしかし、綺麗な場所だ」

 声が洞窟内に反響する。

「昔は、ここはただの大きな穴だったそうです。底の見えない大穴ですから、ゴミを棄てる者もいましたし、身を投げるときにこの場所を選ぶ者もありました。しかしある時、大きな地震のあと、近くの誘泣湖の水が大穴に流れ込むようになりました。すぐに誘泣湖の水は枯渇してしまい、貴重な水場を失った村の人たちは山を下りていってしまいました」

 

「この瀧には水龍様が宿っているとされています。水龍様は麗人の姿をしているといわれていたり、瀧に飛び込んだ者にのみ姿を見せるといわれていたり、流れる水の一滴一滴に水龍様が宿っているといわれていたり、様々な伝承があります。この瀧に身を投げる者が後を絶たないのも、あるいは水龍様に魅せられた者たちなのかもしれませんね」

 なかば誘われるようにして滝の底をのぞき込む。光さえも届かない遥か奥底から微かに聞こえてくる水しぶきの音は、まるで僕を呼んでいるかのように洞窟内に響き続けている。 

 そうか、この瀧の情報が少ないのは、ここに来る人の多くがここに身を投げるために来るからだったのか。

 

「夜世から一つ、お話ししたいことがあります。夜世のこの眼、実はただのガラス玉なんです。ほんとうは全く、なにも視えないんですよ」

 夜世はずっと伏せていた目をまっすぐにこちらへ向けた。

「それは、どういうことだい?」

 夜世の眼を凝(じっ)と見てみる。綺麗な琥珀色だ。

「夜世は昔、この瀧に落ちたことがあります。当時は五つほどだったと思いますが、瀧に落ちたという記憶だけは鮮明に残っています。

あるとき、洞窟を見つけました。今しがた通ってきた洞窟のことです。幼い私は奥へ奥へと歩いていき、ついに、ちょうど今おじさんが立っているその場所にたどり着いたとき、当時の瀧は天井の亀裂がもっと小さくて、ここまで大きな瀧ではありませんでした。そして、何を思ったのか、瀧壺に飛び込んだんです。恐怖は全くありませんでした。ただただ瀧に魅了され、好奇心の赴くままに飛び込んだのです。

落ちて、落ちて、この瀧の底まで落ちたとき、そこはただただ真っ暗な空間でした。不思議ですよね。この高さから落ちたら常識的に考えて無事で済むわけがありませんから。でも、着地の瞬間、なにか不思議な力に助けられたんです。急に体が浮く感覚がして、もちろん自由落下の最中ですからずっと浮いているような状態ではあったのですが、地面に触れるぎりぎりの所で誰かが夜世の体を抱えてそっと足から下ろしてくれたような、そんな感覚でした。そうして底に着いて、暗闇の中でひとりぼっちになったとき、そのとき初めて私は〝怖い〟と感じました。全く何も見えない中手探りで進んでいると、誰かが落としたであろう懐中電灯を拾いました。突然、視界が真っ白になったんです。暗闇に慣れた目で懐中電灯の明かりを目にしたのでその所為かも判りませんが、あまりの眩しさに、目を瞑ってしまいました」

夜世はそこで話を区切る。瀧に落ちた夜世が感じた不思議な力と声……。幻覚だったと判断するのは簡単だが、それでは夜世が無事に着地できたことの説明がつかない。

 あるいは滝の底にはクッション性のある何かが沈殿しているのか。泥か藻のような柔らかいものが底にあれば、無事に着地できる可能性がある。あるいは過去に身投げした人たちの……。

 思考が恐ろしい方向に伝播し、背筋が冷たくなった。明かすべきでない神秘もあるだろう。僕はこれ以上を考えることをやめた。

「しばらくして目を開けると、夜世は湖の畔に座り込んでいました。この真上にある誘泣湖です。湖面に映りこんだ自分の顔を見たとき、自分が眼を開けていないことに驚きました。眼を開けずとも、周りを視ることができるようになったのです。ただ視える以外にももう一つ、私のこの眼はどうやら相手の感情を、特に負の感情を強く感じとることができるようでした。人と会う度に相手の負の感情が見えてしまうのです。嫉妬や憎悪や殺意が判るようになってしまったのです。それが誰に向かう感情なのかは判りません。ですが、それがもし夜世に向けられたものだと思うと怖くて……」

 随分と重たい話をしているのだろうに、夜世の表情には大きな感情の起伏が見られない。恐らく、今までずっと感情を抑えて生きてきたのだろう。

 人の負の感情が分かる眼。確かに、人の感情なんて分かった所で、良いことなんてないのかもしれない。しかもそれが負の感情ともなると、精神的な負荷はとてつもなく大きいはずだ。

「でも、村の外から来た人達は大丈夫なんです。夜世と初めて会った人は、夜世に対して負の感情はあまり無いですから。だから、おじさんみたいなお客さんにはこちらから話しかけるようにしています。村の人たちよりも楽しくお話ができるから」

 そう言うと夜世は薄く微笑んだ。

「長くなってしまいましたね。こんなにお話ししてしまってごめんなさい。門限があるので、夜世は先に戻らせていただきます。代わりにお姉様に案内を頼んでおきますからご安心を。今日は新月なので、夜道は暗いかと思います。どうかお気をつけて」

 夜世はさっさと帰ってしまった。門限だというのなら仕方ない。

 むしろ、初対面のおじさんを相手にここまで親切にしてくれたのだ。

……ありがとうと、伝え損なってしまったな。帰るまでにもう一度会うことができるだろうか。

 取り残された瞬間、神秘的な青い空間が恐ろしくなってくる。この瀧は今までどれほどの人間を呑み込んできたのだろう。おそらく、この瀧の底は酸素が薄い。山奥の洞窟などによく見られる現象だが、地中のバクテリアや苔などが穴の底の酸素を二酸化炭素に変えてしまっているのだ。夜世も、瀧の底で不思議な力に助けられた。と言っていたが、おそらく酸欠状態で幻覚を見たのだろう。

バクテリアの活性状況次第ではこの洞窟まで無酸素状態を作り出すこともあり得るだろう。

もしくは、この瀧には本当に何かがいるのかもしれない。

 恐る恐る、首にさげていたカメラを構えた瞬間、背中に軽い衝撃を感じた。

身体がバランスを崩し、崖の外に倒れていくのがわかる。

スローモーションになる世界で、振り返った僕が見たものは、両手を突き出した夜世の姿だった。

「あ、」

多くの疑問が刹那の内に脳内を埋め尽くす。

なぜ僕は落とされている。なぜ夜世が。僕はここで死ぬのか。

溢れかえる疑問の数々。しかし誰も答えてはくれない。

何も見えない暗闇をただひたすれに落ち続ける恐怖が、ついに諦めに変わる。やがてそれすらも過ぎ去り思考までが暗闇に満ちるのを感じながら、僕は意識を手放した。

 

◇◇

 

僕が眼を覚ますと、そこは小さな湖の畔だった。突き落とされたことまでは明瞭と覚えている。そして落下中に気を失って、気が付いたらここにいた。あの洞窟からどうやってここまで上がってきたのかも、確かに落ちたはずなのになぜ無傷なのかも、まるで何も判らない。

ふと、夜世の話を思い出した。眼を開けなくとも視えるようになっていた、と夜世は言っていた。

ぎゅっと目を瞑り、周りに意識を向けてみる。水の音、木の葉が擦れ合う音、鳥の声、虫の声。土の香り、腐り落ちた木の皮の香り。どんなに意識を凝らしても、感じるのは耳と鼻だけだ。視覚情報はなにも入ってこない。

諦めて目を開けると、視界の端に動くものがあった。綺麗な緑色をしたカマキリが覚束ない足取りで水辺に向かっている。やがて、水に入っていったかと思うとそのまま溺死し、そのカマキリの腹を裂いて二匹の針金虫が浮いてきた。

針金虫は時に人の身体に潜り込むことがある。そんな話をふと思い出した。針金虫が人の身体に入ったら、どうなるのだろう。やはり、カマキリと同じように溺死させ、その腹を割って出てくるのだろうか。あるいは身体という殻から孵らぬまま、人の世界に紛れ込むのだろうか。

実際には針金虫が人の身体に入ることなんてほとんどない。水たまりの針金虫で遊んでいた少年の爪から指の中に這入ったという話は聞いたことがあるが、それはただの侵入であって寄生ではない。つまり、針金虫が人に寄生するイフ(もしも)なんて考えても、それは現実になりえないということだ。

無益な思考を脳内から追い払い、僕は立ち上がる。

あの祠の入口からは南中した太陽が視えた。つまり、ここが誘泣村のある山の頂上だとすると、南に下れば誘泣村に戻れるということだ。

 そうして、まっすぐ南に下っていくと、見覚えのある祠に辿り着いた。

 

◇◇

 

 洞窟の入口にたどり着いたとき、日はすでに暮れかけていた。腕時計に村の方ではなにやら祭りをやっているようで、賑やかな囃子の音が聞こえてくる。

「ずいぶんと遅かったのね」

不意に後方から声がしたので驚く。

振り向くと、夜世とそっくりの少女が石に腰かけていた。顔貌から服装までどこまでも似ている。しかし、彼女の瞳は日本人特有のダークブラウンだった。

「お待たせしてしまったようで、申し訳ない。君が夜世ちゃんのお姉様でいいのかな」

「あなたにお姉様と呼ばれる筋合いはないわ」

 そう言って少女はこちらを睨む。どうやら彼女の気に障ってしまったようだ。

「大変申し訳ない。なんとお詫びすれば……」

咄嗟に頭を下げる。確かに、初対面で〝お姉様〟と呼ぶのは間違いだった。そもそも彼女は僕のお姉様ではない。全くもって彼女が正しい。

「ふ、ふふ、あはははっ。冗談よ冗談。ふふっ」

「……は、ははは」

さっきまで自分を睨んでいた少女が快活に笑っているという光景に戸惑ったが、どうやら自分は彼女に揶揄われただけだったらしいということに気がつき、安堵の笑いが漏れた。

 

 

「あなたにお姉様と呼ばれ続けるのは気持ちが悪いから、名前を教えてあげる。ヨルよ。呼び捨てて呼んでくれてかまわないわ」

少女は足元の土に〝夜流〟と書いた。

夜世と夜流か。この子たちの名付けの親は夜が好きなのだろう。

 遠くの祭り囃子が大きく聞こえてくる。

「水神様をお祭りしているのよ。山の奥には誘泣湖っていう湖があって、そこには水神様がいるとかなんとかで、村の人たちはみんな誘滝湖の水神様を崇拝しているの。私は水神なんて信じてないけどね」

 水神様、か。たしか夜世は水龍様と言っていたが、認識の違いだろうか。

「やっぱり人混みは性に合わない。私は先に社の方に行っているから、お祭りを楽しんでくるといいわ」

 夜流と別れ、参道に沿って並んだ露店を巡る。猪肉を混ぜた炊き込みご飯のおにぎり、山女魚の塩焼き、食欲をそそる香りがしてくる。思えば今日は朝から何も食べてない。

 ワイワイ。ガヤガヤ。都会の混雑とはまた違った喧騒。昼間みた閑静な山村の風景からは想像できない賑わい様だ。

その間にも、僕の頭には数々の疑問が浮き沈みしていた。

 そもそもこの国で水を崇拝する地域があったとは。山奥における信仰は山そのものや大樹・大岩に向かうことが多い。水に向くことは、無いとは言わないまでも相当希少だったはずだ。この地域にとって、誘泣湖というのはよほど特殊な湖なのだろう。

 僕が昼間見た湖がおそらく誘泣湖だ。

水神と水龍、夜世と村民の間にある認識の齟齬。

 僕の仮説が正しければ、この山に龍がいるという伝承はあるいは真実なのかもしれない。

 様々な思考が泡となって現れては消え、また現れては消えてゆく。

「あれ、ずいぶんと早く出てきたのね。楽しかった?」

 夜流の声に思考の泡が一斉に弾け飛び、意識が現実に戻った。

社の前の段差に夜世が腰かけている。考え事をしながら歩いていたらいつのまにか社まで来てしまったらしい。

「ああ、お祭りなんて久しぶりだから、はしゃいでしまったよ」

「あははっ。可愛らしいお面をつけているのね。どうしたの」

「みんな着けているようだったからつい、ね。僕のお面はそこの屋台で買ったものだけど、どうだい。なかなか可愛らしいだろう」

お祭りですれ違う人はみな独特なお面を付けていた。熊や狐や鷲など動物を模したものがほとんどだったが、龍や天狗などといった架空の存在のお面も見かけた。

この村の祭りにおける慣例のようなものかと思い、屋台で購入したのだ。

「ふふっ。おじさんにスズメのお面は似合わないわ」

 夜流は〝ツボ〟に入ってしまったらしく、僕を見ては笑いが止まらないといった様子だ。

 僕が選んだのはスズメのお面。柔らかな毛並みと可愛らしい嘴がとてもリアルに造形されており、衝動的に買ってしまった。

「ひとつ、昔話をしてあげましょうか」

 そう言って、夜流は話しはじめた。

 

◇◇

 

「昔々、この山にはイザナキ村という集落がありました。小さな小さな村でしたが、麓の集落との交易が盛んで、それなりに栄えておりました。

その村にはイザナキ湖という小さな湖があり、その近くには名前もない大きな穴がありました。

ある日、イザナキ村に一人の旅僧がやってきました。

それはそれは遠くから山奥の小さな集落に来てくれたので、村人たちは丁重にもてなしました。

僧侶は仏教を広めるべく、全国各地を旅していたのでした。イザナキ村に来たのも、村の人々に仏教を広めようと思ってのことでした。

村の人々のもてなしを受けた僧侶は、お礼にと、村の人々に仏教の経典の写しを渡しました。

村の人々には仏教というものがまるで理解できませんでした。日々、自然とともに暮らしてきた彼らにとって、宗教という非論理的な思想がわからなかったのです。

怒る者さえいました。一部の気の短い人達が旅人を寄って集って殴りつけました。旅人は死んでしまいました。死体は穴に棄てられました。

それから、大きな地震が立て続けに起こりました。地震で建物は倒壊し、斜面に築いた棚田も崩れ、なにより生活の中心にあったイザナキ湖の水が大穴に流れ込み、干上がってしまったのです。村人たちは絶望し、山を下りていきました。

 しかしあるとき、山を下りた村人たちが村へ戻ってきました。イザナキ湖の水が復活したからです。村人たちは田畑を耕し、家を建て、集落を再興しました」

 

◇◇

 

「眼を見せて」

そういうと夜流は僕の眼を覗き込んできた。

「あら、あなたは〝人間〟なのね」

「? 僕はもともと人間だよ」

夜流の言っている意味が分からない。

「……行きましょう。彼らがあなたを探しているわ」

「え、それは一体どういう……ッ」

突然、夜流に手を引っ張られ立ち上がる。予想外に強い力で手を引かれ困惑しながらも、夜流についていく。

 ガサガサ

ゴソゴソ

草木をかき分けてなにかが追ってきている。それも一人じゃない。かなり大勢いるようだ。

「少しゆっくり進んでくれないかな」

「これ以上遅くしたら逃げ切れないわ。これでも、あなたがぎりぎり追いつける速度を保っているつもりよ」

 夜流の声は至って冷静だ。息が切れている様子もまるで見受けられない。

「君は、足が速いね」

「この道はいつも通っているから。慣れているだけよ」

 ガサガサ

 ゴソゴソ

 音が少しずつ近づいてきている。

「申し訳ないんだけどさ、僕たちが誰から逃げているのか教えてくれないかい。なぜ僕を狙うのか分からないけど、話せば和解できるかもしれない」

「追って来ているのは村の住人たち。話なんて聞かないわ。捕まったら殺されると思った方がいいわね」

「殺されるといっても、僕が追われるような理由はないだろう」

「今日は新月。水神様に生贄を捧げるのに最適の日。そしてここに外からやってきた最適な生贄候補がいる。我ながらなんてわかりやすい説明かしら」

 なるほど。

「素晴らしくわかりやすい説明だよ。ありがとう」

 細かいことは何も解らない。しかし、捕まれば生きては帰れないということだけは判った。逃げなければならない理由としては充分以上だ。

「彼らの目的はあなたを誘泣湖に放り込むこと。そして私の目的も、あなたを湖に放り込むこと。彼らはあなたを贄として神に捧げたい。つまり殺したいと願っている。けれど私は、あなたが生きて帰る手段として、湖に飛び込むことを推奨する。彼らに捕まって、手足を千切られて重石を括りつけられたうえで湖に投げ込まれるか、自分で飛び込むか、よく考えて選ぶといいわ。そうして水に身を任せれば、あなたは帰れるわ」

森が開け、目の前に湖が現れた。太陽の下では森の緑も相まって美しかった景色、真っ暗

「ここが誘泣湖。帰りたいと願うなら、自らの意思でここに飛び込みなさい。あなたにその勇気があるのなら」

 躊躇う理由は何もない。しかし最後にひとつだけ、聞いておきたいことがある。

「なんで僕を助けてくれたんだ」

「夜世のため」

 回答は簡潔で、明瞭だった。それ以上答えることはないとばかりに、夜流は口を結び、こちらに向かって手を振る。

 僕は覚悟を決め、思い切り息を吸い込み湖に飛び込む。

夏だというのに湖の水は冷たかった。日が沈んで随分と立つから、水温が下がるのは当然だ。一瞬にしてポリエステルのスーツに水が浸透し、体が重くなるのを感じる。湖の底に深く沈んでゆく。

 おそらく水底(みなそこ)の石にでもぶつかったのだろう。頭に強い衝撃を受け、僕の意識は闇に呑み込まれた。

 

◇◇

 

 体中の筋肉が強張るような痛みで目が覚める。

カメラは壊れていないか。懐中電灯は、携帯は、財布は。

暗闇で何も見えない中、なんとかリュックサックから懐中電灯を取り出し、電源を入れる。視界が確保された瞬間僕は、自分が紫色の空間にいることに気付いた。

「アメシストのジオードか……」

懐中電灯の光が洞窟中のアメシストに反射し、洞窟中が紫に輝いている。

火山活動の活発な地域では、溶岩が冷え固まることで内側が空洞になった岩石ができることがある。その空洞の壁面に水晶が結晶化することでジオードが生成されるのだ。

ジオード自体はそれほど珍しいものではない。その辺の石ころを割ったら内部にジオードが生成されていた、なんてこともよくあることだ。

しかし、これほどまでに広いジオードは珍しい。

 

「あれ、さっきのおじさん。よくここまで来られましたね。夜世は驚きを隠せません」

背後にはいつの間にか夜世が立っていた。驚きを隠せないというのはこちらも同じだ。まさかこんな所で夜世と再会することになるとは思いもしていなかった。

「明かりをこちらに向けないでください。何も見えないじゃないですか」

そう言われ、自分がずっと夜世に懐中電灯をフォーカスしたままだったことに気付き、慌てて光を逸らした。

「君は、なんでこんな所にいるんだい?」

「夜世は、ずっとここにいますよ」

 嚙み合わない回答。目の前にいる夜世が少しずつ恐ろしい存在のように思えてくる。

本当はもっと地下に、もっと深い場所にあったに違いない。ちょうど

「ちょうどあの晶洞の奥、です。そこがあなたが帰るべき場所」

 夜世は心を読んでくる。僕の心の負の部分を。

「この石、何色に視えますか」

夜世の手にはこぶし大のアメシストの結晶が乗せられていた。少し歪な結晶面から小さな三連双晶の発生が見られる。

 紫色に見える。紫色だから、アメシスト(紫水晶)なのだ。

いや、違うな。この空間が紫色だから、石も紫色に見えるのだろう。アメシストの三連双晶結晶なんてそうそうあるものではない。夜世の手にある結晶は白もしくは透明、おそらくフェルスパー(長石)かクォーツ(水晶原石)の類(たぐい)のものだろう。

 そもそも夜世は何故、石の色を訊いてきたのだろうか。夜世が石に詳しいとは思えない。であれば、純粋に視えた色を答えるのが正解か。

「紫色に視える」

「おじさんにはそう視えますか? 夜世には黄色に視えます」

 何を言っているのか解らなかった。

「夜世の眼に映る世界は、黄色です。空も木々も人々も、まるで琥珀を覗き込んだときのように、全てが黄色。この水晶の空間だって黄色です」

 僕にはすべてが紫色に視える。僕にも夜世と同じような〝眼〟が宿ったということなのだろうか。

「そもそも、ここに光はありません。視えるものは、あなたに宿ったその〝眼〝が映し出したものです。夜世は、夜世に見える色だけが視えています。おじさんもおそらくそうだと思いますよ。おじさんが今その手に持っている、その懐中電灯は点いていますか?」

 問われて手元を見る。懐中電灯は点いている。でなければ、この暗闇で視界を保てている訳がない。しかし、僕の手にある懐中電灯のスイッチは、オフに傾いていた。

「夜世の眼は黄色を視ます。光の届かない暗闇を琥珀色に視ることができます。おじさんにも視えているでしょう。この晶洞の外は、おじさんの望む場所です。そこは明るくて、とても醜い場所。多くの意思たちが犇(ひしめ)き合っています」

僕は一歩踏み出す。クリスタルの道を通り抜けると、太陽の光が差し込んだ。

あまりの眩しさに思わず眼を瞑ってしまう。

 

◇◇

 

古来から伝わる陰陽道の考えに、〝龍脈〟という概念がある。大地には大きなエネルギーが流れる道のようなものがあり、その道を通ってエネルギーが循環することで大地が生きているという考えだ。龍脈に異常をきたしたとき、龍脈のエネルギーが湖の水に流れ込み、「誘泣の霊水」となったのだろう。

僕に宿った〝眼〟も龍脈の恩恵なのかもしれない。

 

◇◇

 

 気がついたとき、僕はどこかのベッドに横になっていた。

「……!」

 薬品のような匂いから察すると、ここは病院か。僕は帰ってこられたようだ。

「……!」

 さっきから耳元で誰かが叫んでいる。煩(うるさ)いな。放っておいてくれ。

「ユーキ、ユーキ、起きてよ」

 曖昧だった聴覚が聴き慣れた妻の声を捉え、意識が急激に覚醒するのがわかった。

「ここは、……ッ!」

 上体を起こした瞬間、激しい頭痛に襲われた。

耐えがたい激痛に思わず頭を抱える。耳元で妻が何かを叫んでいるが、耳鳴りが煩くて聞こえない。

耳を塞ぎ、痛みが過ぎ去るのを待つことしかできない。

 

◇◇

 

「症状は治まりましたか」

 知らない男性の声だ。ここが病院であることから察すると医師だろうか。

「……はい。治まったと思います」

 頭痛の余韻が引かないが、大きな波は乗り越えたようだ。耳鳴りも治まり、周囲の声が鮮明に聴こえる。

「あなた、今は両目とも包帯で覆われているのよ」

 医師の話によれば、病院に搬送されたとき、すでに僕の両目は完全に機能を失っていたらしい。医者は言葉を濁したが、まぁ潰れていたということだろう。

「眼球破裂はある程度までは縫合などで治療が可能ですが、田中様の場合は損傷が大きく、視神経や視床組織が壊死しているため、現時点では処置の仕様がありません。また、壊死した細胞が眼窩から脳に悪影響を与えるため、しばらくは先ほどのように頭痛や耳鳴りのような症状が続くかと思われます。激しい運動を控えていただくことは勿論ですが、座ったり立ち上がったりなど少しでも頭が上下するような動作は注意してください」

 先ほどから聞こえる耳鳴りも頭痛も、この眼が原因だったのか。立ち座りするだけでこんな苦しむことになるのは実に不便だ。

「それと、残酷な話になりますが、医師の意見として、壊死した眼球は摘出することを推奨します。田中様年齢では視力が回復する可能性はゼロではないので、時間をかければある程度まで視力の回復が望めます。しかし、長期間にわたる治療が必要であり、回復を待つ間に壊死した細胞が起こす悪影響が脳に及ぶリスクがあり、それらがどの程度の影響を及ぼすかは現時点では判別できませんが、最悪を考慮しますと、やはり摘出することをおすすめします。最終的にどうされるかは田中様がご自身でお考えください」

 僕は摘出することを選んだ。即答だった。本来はもっと悩んで結論を出すのだろうが、僕は自身の眼球がなくなること、視力がなくなることにひとかけらの未練もなかった。

 なぜなら〝眼〟が宿っているから。

 

◇◇

 

 あれから一年が経った。半年ほど続いた頭痛も耳鳴りも完全に消え、僕は仕事に復帰した。視力が失われても眼のおかげで周りが視えるのだから、生活にはなんの支障も出ていない。むしろ、眼から得られる情報が増えて仕事の効率は上がったように思う。

僕の眼が映すのは、人々の願い。相手の望むものがなんとなく判るのだ。上司のご機嫌取りも取引先とのやりとりもお手の物だ。相手が望むもの、望む答えはすべて視えているのだから。

リハビリを続け、眼を開けることはできるようになった。開けたところでガラス玉を覗かせるだけだから無意味なような気がするのだが、医者から「定期的に涙腺を機能させないと眼窩に虫が湧く可能性がある」と言われたのだ。目の中に虫が湧くなんて、考えるだけでぞっとする。

 宴会の一発芸で義眼を取り出して「ぬりほとけ」と言ったら気持ち悪いからやめろと言われてしまった。若い子たちには受けたようで、休憩時間なんかにときどき「ぬりぼとけ~ってやつやってください」と頼まれることもある。

「〝ぬりほとけ〟なんだよ。〝ぬりぼとけ〟じゃない。」

 正確にはどっちが正しいのかは知らない。これはあくまでも僕の拘(こだわ)りだ。

「今ドキの若者はぬりほとけ知ってるの? 妖怪とかわかるのかな」

「知らないッス」

 今ドキの若者は妖怪に興味がないらしい。

「ほら、ぬりほとけ」

「おぉ~」

 でも、眼を抜いて見せてやると喜んでくれるから、こっちとしても嬉しい。

「田中さん、最近なんか、その、性格変わりましたね」

 そうかな。僕は昔からこうだった気がするけど。

「前は、ほら、もっと真面目な感じの人だったじゃないですか」

 あれ、そうだったっけ。

「そういえば、娘さんはお元気ですか。少し前に写真を握って苦しそうな顔をされていたのを見かけたので、ご病気かなにかかと勝手に思っておりましたが」

 娘……?

 僕に娘はいないよ。

 

「田中君、最近ちゃんと休んでる?」

ぎりり、ぎりり……。

 頭痛がする。耳鳴りが煩い。耳の奥で、頭の中で、眼の中で、なにかが蠢いているような。

「田中さん、最近顔色悪いですけど、大丈夫ですか」

 僕の中の何かが、変わっていく音がする。僕じゃない誰かが、僕を動かしているような感じだ。いや、違う。僕が、僕じゃないなにかに変わっていくような。

ぎりり、ぎりり……。

 頭痛がなかなか引かない。僕が僕でなくなっていくのを感じる。僕の中の僕の部分が次々と、新しい僕に変わっていく。

ぎりり、ぎりり……。

ある朝起きると、僕の記憶は空っぽだった。毎朝、どこかへ向かっていたことを身体が微かに覚えている。どこへ向かっていたのだったか。僕には行くべき場所があったはずだ。

頭が痛い。意識が点滅する。

 

 針金虫。カマキリの体内に完全に適合した針金虫は、やがてカマキリの身体を意のままに動かすようになる。そして針金虫の意のままにカマキリは水に飛び込み、その生涯を終える。

針金虫に操られたカマキリは、驚異的なパワーを発揮するようになる。なぜならそこに恐怖の感情がないからだ。カマキリは恐怖を感じることさえないまま針金虫に操られ、針金虫のために死ぬ。

 

 そんな話を思い出しながら歩いていたら、気付けばいつぞやの瀧に来ていた。考え事をしながら歩くのは悪い癖だ。でも今は、自分の意思ではない誰かの意思が、僕を操っている。そんな気がする。一人称視点で動画を見ている気分だ。

僕の意思が僕の意思に反して還ろうとする。

僕の本能が僕の本能に抗って還ろうとする。

還る。どこへ。帰る。僕らがいるべき場所へ。僕らが帰るべき場所へ。

崖の下へ。瀧の底へ。あのいつかの晶洞へ。

 意識が点滅する。

「還りたい」

 それは本能が発した声だった。僕の中にいる、僕じゃない僕の、本能の声。

僕が最後に見た景色は、一面のアメシスト。

自身の頭蓋が割れる音が聞こえ、僕の意識は消滅する。

 

 その日、どこかで小さなクリスタルが砕け散り、別のどこかで小さなクリスタルが誕生した。そこは暗くて、とても美しい場所。多くの石たちが煌き続けている。


 ◇◇

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?