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”デザイナー”という肩書きにしがみついていたわたしの話

こんにちは!
東京で靴下を作る仕事をしている 出沼妃那と申します。
このnoteでは、
’’デザイン+職人技=日本の美、文化。これを後世に受け継いでいく’’
をテーマに、これまでわたしが経験してきた、美大生、デザイナー、製造現場の職人として、それぞれ違う立場から見えてきた課題に向き合い、得た解決策やもの作りに役立つ情報を、これからの日本繊維業界を盛り上げていくひと達への一助となる発信をしていきたいと思っています。

今回は、わたしが”デザイナー”に憧れ続けた過去について書きたいと思います。

わたしは、大学でニットを専攻し、デザインだけでなく、実際に自分の手を使ってもの作りをすることに喜びを感じていました。

大学を卒業して日本に帰国後は、テキスタイルデザイン事務所で働き、その後、生地販売会社にデザイナーとして勤務しました。

生地のデザインをパソコンで描く
糸帳で糸の色を選ぶ
指示書を書く
工場に作ってもらう
でき上がってきた物の修正をする

これが一連のデザイナーとしての仕事でしたが、自分がデザインした物ができ上がってきても、達成感や愛着が湧かず、同僚や後輩のデザインの方がいつもカッコよく見えて、常に劣等感を抱いていました。

そして、工場さんに嫌われ、依頼したデザインを作ってもらえなかったり、売り上げが出せない日々を過ごているうちに、いつしか夜になると上唇が腫れる様になりました。

面白いことに、朝になるとその腫れはひき、何もなかった様に出社することができました。何もなかった様に出勤できたので、身体の異変に気づきながらも、ずっと憧れていた”デザイナー”という肩書きに必死になってしがみついていました。

作る側の人になりたいと常に心のどこかで思っていたにもかかわらず、自分のことしか考えていないデザインをしたり、様々な痴態を晒してでも、憧れていた”デザイナー”でいることに執着していました。

工場さんに作ってもらえなかた事も、”デザイナーは偉い”という幼稚な思い込みが、上から目線になっていたのだと今なら気づくことができます。

その後、デザイナーを離れ、専業主婦になり、娘の洋服や幼稚園グッズを作る中で、やっぱりわたしのやりたかった事は、”もの作り”なんだと強く感じました。

そして今、靴下工場で働くようになり、お客さんのデザインデータを作り、実際に編み機を操作してでき上がった靴下を見ると、なんともいえぬ達成感と幸福感を味わうことができます。

もちろん、大変な事はありますが、自分の気持ちに従って製造業を選んだので、
失敗やトラブルも全て糧になると信じています。

でもこんなふうに考えられるようになったのは、デザイナー時代の経験があるからそこ実感できることで、デザイナー時代の苦い思いではただの一つも無駄になっていません。

今の仕事に携わり続ける限り、わたしとデザインは切っても切り離せない関係です。そして、今もなお、わたしにとって”デザイナー”という肩書きは、憧れであり、怖い物でもあります。憧れで怖い物だからこそ、いつまでもデザインすることに誠実に向き合い、そして、もの作りに真摯に向きたいたいと思っています。


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