写真に撮るように記録すること 言語化

なんていうのだろう
その時をカシャッカシャッと記録すること

「記録」というか、その時を「言語化」すること
「言語化」とは、「納得してもらう」ということ。

私はここに武器を見出して、ため息のしんどさを持つ。
そんなことしたくないのに。と。

社会に向かうための 社会にいるための 出るための 
私の身だしなみの準備。


私は、「調べてなんでもかんでもわかる」に違和感がある。
「調べて理解していく」こともあるが、他人に「これはこういう意味なんです」って、言いたくないのだ。

実際、そう、あなたが納得するような実際の経験談、
「先生」も、「これは実際はよくわからないことなんだ」って「言っていた」よ。

理由とされていることは、本当ははっきりしてないんじゃないかな。
各自の中で、もっと広い所から理由・要因・資料・観測…を拾って、醸造していくものではないかしら。

短い間の円滑なコミュニケーションでなら、「一説」を話して、あとは「はっきりしてない」ことも、「それをいいと思う」ことも言いたいものだ。

・・・


円滑なコミュニケーションを身につける中、
良いことと、一方奴隷のような感触も、まだ得てしまう私である。


世界の見え方の真実は、
暗いものもよく見えている。だが、
社会生活を営む上で、
明るいものを選んでいく。

選ばれる明るいもの、けれど、選ばれないものが真実でないわけではない。
私は、明るいことへ、少しの息苦しさ。
心からなっても、
暗いものを嘘にするようなことはしない。絶対に覚えていてあげよう。

覚えている。今の自分になくっても、覚えていよう。



===
私のつまづきは、批判的だったりするところで シャッターが切られている
批判や疑問、途中の状態で「良いじゃん」「それが良い」と思っている

しかし「肯定的に語る」状態で切らなくてはいけないみたいだ。
そんな脅えと不服が吃らせる。

その時相手を悪く言ってはいけないのだ。
「肯定的に語りきっておく」のをえー?と思ってる。※
でもそれでダメな、「提供している」「商品」ということ。

※多分ここだけで、つまづきは、相手へと、「肯定的〜」の言説へ批判的でというのは

シャッターを切る時の言葉 を 言語化 とすると
「肯定的に語りきっておく」だけでなしに、「途中」も言語化できるのなら

気持ちよくいられるかもしれない。

(「肯定的に語りきっておく」ことに、すでに腹が立ってきた。嘘をつかせられている。隷属している。押さえつけられている。ニコニコしていなきゃならない。…と無限に続く)

私の思い切りは、その途中に向かってシャッターを切ることか??
なんでそれがしにくかったのか???


それがしにくかったのは、何が?
(先に進んでいたのかもしれない。「肯定的に〜」の方。「こうしなきゃダメなんでしょ」の方へ。)
何か恐れと体力があった。



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