Toinet ④
この時、後藤さんの気持ちがわかった。これがウンコする幽霊か。
足音の持ち主に僕らはずっと話しかけた。
それはもう必死だった。後藤さんなんて雪山で遭難してる時の必死さだった。
革靴のコツッ、コツッ、という乾いた音がゆっくりと前を通り過ぎていく。
なぜだ、なぜ届かないのだ。
耳が悪いのか?イヤホンか?
そうこう不安になりながら話しかける僕らをよそに、
幽霊は、僕の左端、一番奥の個室に入った。
鍵の音がガチャンと響く。
「・・・入りましたね。」
「・・・入ったね。」
隣からはまだ音は聞こえない。
「なんなの?意外と聞こえないの?壁厚いの?え、将太の時も聞こえなかった?」
僕はここに入ってきた時の遠い昔を思い出す。
「いや、僕は・・・必死だったんですかね・・・」
「でもさ、今来た人全然必死そうじゃないよね」
「まぁ僕の場合は、っていう話ですから・・・」
「もうこれは幽霊だ。幽霊としか考えられない。死んでるよ。こいつ。」
「ちょっと、聞こえてますから、多分。」
「多分って、お前も信じきれてねえじゃねぇか!」
「いや、そんなことないですよ!必死なんですよ!多分!」
「必死ですよ。」
背筋が凍った。
いきなり声がしたという理由もあるが、そんなことよりも声が冷たかった。まるで死んでいた。
いきなりの静寂が広がる。おそらく後藤さんも気持ちは同じなのだろう。
「あのー・・・幽霊とか言って・・・すいませんでしたぁ・・・・」
後藤さんの声は若干震えていた。
返答は・・・ない。
またしても静寂。
何かを話さないといけない気が膨らみ続けていた僕は、とりあえず口を開くことに。
「すいませんあのーお願い事が・・・」
僕の言葉を切って、右隣の幽霊は言った。「もうだめなんですよ。」
その声は、川が決壊しようとするのに似ていた。
「職も失って、家族も失って、信頼も失って、生きる価値すらも失って・・・・・」
あ、決壊する。まずい。
「だ、大丈夫ですか?」
「いっそ死にたい!!!!」
心の叫びがトイレにめいいっぱい響いた。僕はかける言葉が見つからず、とりあえず後藤さんに伝えた。
「後藤さん、この人からは無理かもしれません。」
後藤さんは言った。「あきらめんなよ。」
僕は言った。「いやいやいや、あの人それどころな感じじゃないでしょ。」
後藤さんは言った。「あきらめんなよ!」
僕は更に言った。「じゃあ、後藤さんが話してくださいよ!」
後藤さんは言った。「人生そう簡単にあきらめてんじゃねえよ!!」
後藤さんはこの3番目の個室を飛び越えて、話をしていた。最初から。
幽霊さんも気付いたのか、反撃を開始。
「う、うるさい!事情も何も知らないくせに!」
「知るかよ!わかるわけねえだろ!!」
そこからはもう喧嘩だった。気づけば中身のない小学生レベルの暴言になっていた。僕は耐えられなくなった。
「ちょっとストップ!ストップ!ねえ!二人ともうるさい!」
やっと鎮火。
「いい大人でしょうよ。まったく。」
ブツブツ残り火の音が聞こえる。壁越しにもわかる不貞腐れ方。もちろん二人とも。
「何があったんですか。」
険しい道だった。しかしこの道を通り、幽霊を鎮めなければ宝は手に入らないと感じた。
「話聞きますよ。ね、後藤さん。」
「嫌だ。」
僕は左壁を思いきり叩き、手に持ったトイレットペーパーの芯を下から後藤さんにコロコロっと渡した。
「ね、後藤さん。」
「・・・悪かった。」
よし、状況が整った。が、
「は、、、なんで見ず知らずの人に話さないといけないんだ。」
理性を取り戻したのか、幽霊はまっとうなことを言い始めた。
「しかも、いきなり話しかけてきて。」
「あ、そうだ!ずっと話しかけてんだからさ、返事くらいしろよ!」
また燃えよう後藤さん。
「ちょっと後藤さんいいから!・・あ、僕たちの声聞こえてましたよね?」
「聞こえてたに決まってるだろ・・・」
希望が見えた。「あ、じゃあそのことなんですけど・・・」
「知らないよ!!余裕がないんだよ!!私は!!」
僕はもう本当にすべてが嫌になっていた。
「死にたいのか。」
トイレに後藤さんの深い声が響いた。
「聞いてやるから、話せよ。死にたいのは困る。」
言葉の意味はよく分からなかったが、その圧は僕らに届いた。
その証拠に幽霊さん、もとい田中さんは「忘れてくれよ」と前置きをして、何があったか話し始めた。
田中さんは、会社の営業部長で部下からの信頼も厚く、幸せな家庭もあり、順風満帆な人生、だった。
ある日、同じ部署の若い女性社員が近寄ってきて、
それからその子とは何回か食事に行ったりしていたのだけど(よく相談をする程度のそれだけの関係とのこと、田中さんが言うには。わからんが。)
いつの間にか「その女性が田中に襲われた」という噂が広まっていた。
驚いて否定しているとどうも発生源はその女性だったらしく、真意を突き止める隙もなく、気付けば会社にも家庭にも居場所はなく、遂にはどちらからも見放されてしまった。
あるのは頑張って建てた小さな一軒家だけ。
嫌になって飛び出して、そして・・・・今に至る。
「私はもう死ぬしかないんですよ。」
こんな人が本当にこの世界にいるんだと驚いた。
「とりあえず生きてろって、とりあえず生きて、頑張って本当の事言いふらせばいいじゃん。」
「いや、もういいんですよ。」
急に田中さんの声が軽くなった。
そしてゴソゴソという音。
「お前何しようとしてんだ。」対照的に、妙に後藤さんが怖かった。
事態を全く把握できていなかった僕だが、かすかに聞こえた音が教えてくれた。
それは、高いシュウィンという音。
知る限りでは包丁などの刃物が堅いものと擦れた音。
「え・・・田中さん?」
「ありがとうございました。」恐ろしいほど軽い声。
「待て待て待て待て死ぬぞ!!!」
「死ぬんです死ぬんですよ!!」さっきとは天地の差の激しさだった。
見えないが、叫んだことにより息は荒くなり、きっと目は血走っている。
僕は驚きに覆われて、馬鹿みたいに口を開けるだけで何も機能していなかった。
田中さんの荒い呼吸だけが響く。
何を言えばいい?言えば、落ち着く?全くわからない。
次第にどんどんとまるでカウントダウンのように呼吸は荒くなっていた。
そして、田中さんは言った。
「田中、死にまーす!!!!!」
通常の僕ならツッコんでいたが、迫りくる恐ろしさに後藤さんと一緒にただただ叫んでいた。
「やめろーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!」
その叫び&「田中、死にまーす」に被せて、
最後の来客が叫びながら走り込んできたのは、
また次のお話。