天照大神と伊勢神宮 (4) 筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」②
『日本書紀』によると、敏達天皇6年(577年)に「日祀部」が設けられました。このとき天皇家は日神を祀っていましたが、まだ天照大神は登場していません。さらに著者は歴史学者の直木孝次郎氏の説を引用して、大化の改新より前に天照大神が祀られた形跡がないことを示します。また、その後も天智天皇に至るまで天照大神や伊勢神宮を祀った記事が『日本書紀』にないことを指摘し、天照大神が天皇家の祖先神として人格を与えられて創り上げられるのは、天武天皇即位(天武元年)から、多気大神宮が度会に遷される前年の文武元年の間だと主張します。
その天武天皇元年(672年)には壬申の乱が起こります。挙兵のために吉野を出て伊勢国に入った大海人皇子(即位前の天武天皇)は「朝明郡の迹太(とほ)川の川辺で天照大神を望拝した」と『日本書紀』は記し、ついに天照大神が登場します。「望拝(たによせおがむ)」を「遥拝」として、すでに伊勢に存在していた皇大神宮を遥か遠くから拝んだ、と解するのが一般的ですが、この時点でまだ皇大神宮がなかったとする著者は、皇祖神としての天照大神ではなく、日の神としての天つカミを拝んだにすぎないとします。大海人皇子の一行は前日からの激しい雷雨で全身ずぶ濡れになり、寒さに凍えて朝を迎えたという状況から考えると、太陽の陽が降り注ぐことを期待して日の神に祈った、という行為は素直に理解できます。しかし、日の神を拝んだにすぎないのであれば「天照大神」という神名が登場することが理解できません。
この解釈については、前回に登場した林一馬氏(建築史学)も近い見解を出しています。同氏はさらに、大海人皇子はこのときに天照大神を自らの陣営の守護神とすることを決めたのだ、と一歩踏み込んだ主張をします。というのも、大海人皇子はこの時点では皇室に対して反逆を企てた謀反人であり、仮に天照大神が皇祖神として成立していたとすれば、それは近江側、すなわち大友皇子によって祀られるべき存在であり、それを強奪でもしない限り大海人皇子が拝むことは考えられないとします。つまり、この時点で天照大神は皇祖神として成立していないということです。的確な指摘だと思います。そして大海人皇子が天照大神を守護神にすることを決めた理由のひとつとして、日神への連想があったことをあげます。林説ではこのときに「天照大神」という名の神を守護神にすることを決めたので、この神名が登場することは納得できることになります。
ところで、『古事記』における天皇家の祖先神の呼び方は、編纂時に確定していた名称である「天照大御神」に統一されていますが、一方の『日本書紀』では古くからの言い伝えを整理不十分のまま掲載しているので様々な名称が出てきます。「日神」「大日孁貴」「天照大日孁尊」「天照大神」などですが、これらはこのまま太陽の霊魂からその人格化、天皇家の祖先神化のプロセスを順に示しています。持統天皇3年(689年)に草壁皇子が死去したときに柿本人麻呂が作った挽歌に「天照らす日女尊」という名が登場します。これは持統天皇のときには天皇家祖先の人格神の呼び名が天照大神として固まっていないことを表しています。神格三転説の第二段階です。
『日本書紀』には持統天皇6年(692年)に伊勢大神が伊勢国の貢ぎ物の免除を天皇に願い出たことが記されることから著者は、このときの伊勢大神は天皇家の祖先神になっていないことが明らかである、とします。たしかに、伊勢大神が皇祖神になっていたとすれば、皇祖神が天皇にお願いするというのはおかしな話です。また同じく持統天皇6年、天皇は伊勢に行幸したものの伊勢大神を参詣しなかったことから、この時の伊勢には参るべき皇大神宮はなく、伊勢大神も皇祖神になっていなかったとします。ただし、ここでは天照大神の前身が伊勢大神であることを前提としていますが、果たしてそうなのでしょうか。
文武2年(698年)に多気大神宮が度会郡に遷されて皇大神宮が成立したとする著者は、多気大神宮の名が多分に皇大神宮的であることなどから、多気大神宮は皇大神宮に似たものとして天皇家によって設立され、天皇家の氏神または祖先神の意識をもって祀られていた、とします。しかし一方では「多気大神宮はもうアマテラスをまつっていたかもしれませんが」と言葉を濁し、多気大神宮に祀られる皇祖神が天照大神であるとは明示しません。いずれにしても持統天皇6年以降、文武天皇2年までの数年の間に神格三転説の第三段階を迎えた、つまり天照大神が誕生したと説きます。
(つづく)