天照大神と伊勢神宮 (5) 筑紫申真氏の「アマテラスの誕生」③
筑紫申真氏は、天照大神は天武・持統両帝がつくったカミであり、皇大神宮は天武・持統両帝が築き上げた神社だと断言し、神格三転説にもとづいてそのプロセスや成立年代を説きます。加えて、その場所がなぜ南伊勢であったのか、についても論述しているので要約してみます。
南伊勢の宮川下流域は度会県と呼ばれ、この地の磯部(伊勢部、石部)と呼ばれる漁民たちを支配下におく度会氏が治めていました。天皇家の支配下に入ってからは御食つ国として魚介類を献上するほどに漁業の盛んな地域です。その度会氏は伊勢国造や外宮の神官を務めることになる有力豪族で、天日別命あるいは天日鷲命と呼ばれる日の神を祖先神として祀っていました。
大化の改新以降、度会・多気の二郡は神郡に定められ、度会氏は天皇家から統治を委ねられますが、敏達天皇6年(577年)に日祀部を置いて以降、太陽神を祀っていた天皇家と、同じく太陽神を祖先神とする度会氏との関係が深くなっていきます。そして魚介類を献上する役割を担った伊勢の海部(磯部・伊勢部)の中から、宮廷に専属する語部(かたりべ)となって大和に居住する天語連(あまがたりのむらじ)が生まれ、彼らは伊勢の太陽神信仰にもとづく神話を宮廷にもたらしました。これらが天岩戸神話や天孫降臨神話となって記紀に採録されるようになったのです。
天武天皇が幼少期に養育を受けた凡海氏は摂津の海部の一族ですが、その海部つながりを利用して伊勢の海部は天武天皇に接近しました。天武天皇はその影響もあってか、壬申の乱に際して伊勢の太陽神から受けた恩恵に対する報謝はそのまま伊勢の海部が信仰する太陽神への報謝へとつながり、ついには大和での太陽神信仰の場を南伊勢に移すとともに、大来皇女を斎王として南伊勢に赴任させることになったのです。
一方で伊勢の土豪の勢力関係が崩れて、度会氏のもとにあった宇治土公氏が台頭し、その系列の猿女君が天語連をしのいで宮廷内で力を持つに至ります。『古事記』を誦習した稗田阿礼は猿女君の一族です。宮川流域の度会郡を拠点とする度会氏・天語連から五十鈴川流域を拠点とする宇治土公氏・猿女君への勢力関係の変化が、皇大神宮を宇治に建設させる結果につながったと著者は言い切ります。
天岩戸神話で、岩屋に隠れた天照大神を外に出すために岩戸の前で踊った天鈿女命は猿女君の遠祖にあたり、現代においても毎年11月に宮中で催される鎮魂祭での儀式はこの伝承にもとづく太陽霊復活を祈るものです。そして著者は、伊勢の神島で毎年元旦の早朝に行われているゲーター祭りは宇治土公氏によって行われていた太陽霊復活祭の名残りであると指摘します。
最後に、著者は天照大神のモデルは持統女帝であると説きますが、この説そのものは広く説かれているものです。天孫降臨において、子の忍穗耳尊ではなく孫の瓊瓊杵尊を急きょ降臨させたとする神話は、若くして病死した草壁皇子に代わって孫の軽皇子を文武天皇として即位させた史実を反映したものである、天照大神が女性神であることの決定的な理由は持統女帝をモデルにしているから、としますが妥当な主張だと思います。
ここまで筑紫申真氏の『アマテラスの誕生』を3回にわたって見てきました。理解が難しいところは、多気や宇治で祀られていた川の神がなぜ日の神、太陽神になったのか、という点です。著者は「多気や宇治の地方神も川の神でありながらも天つカミとして日の神、風の神、雷の神でもあった」「これらの中から日の神が人格化されて天照大神ができあがった」としますが、川の神なのに日の神が人格化された理由は曖昧です。あえていうなら、度会氏が日の神である天日別命を祖先神としていたから、あるいは、北伊勢を行軍中に雷雨に打たれた大海人皇子が日の神(であった天照大神)に祈ったから、はたまた、神島でゲーター祭りという太陽霊復活祭が行われてきたから、くらいしかありません。
それにしても、度会氏の祖先神が日の神であるなら、なぜ多気大神宮ではもともと川の神を祀っていたのでしょうか。さらには、伊勢の地に皇祖神を祀った最初の場所が多気(現在の瀧原宮のあるところ)だったとして、そこにもともと祀られていた川の神は追い出されたのでしょうか。武光氏はそのあたりを「太陽神を祀る巫女であるひるめの神が水の神を婿として迎え入れて合祀した」と明確にしますが、筑紫氏はそこを曖昧にしています。
以上、著書の内容のほんの一部を紹介するにとどまりましたが、原始的な自然信仰のあり方、神社という形式が出来上がる前の祭祀のあり方など、たいへん勉強になる本でした。上記のように腹落ちしない部分が残ったものの、なるほどと思える部分もたくさんありました。さて、次は伊勢神宮の成立に関する代表的な説のひとつであり、筑紫氏もその著書を引用していた直木孝次郎氏の説を見て行こうと思います。
(つづく)