平成X年競馬 平成7年AJCC
轟音で飛び起きた。
第一感は爆弾が落ちたと思った。が、当時の日本が攻められるわけがないと瞬時に打ち消す。じゃあ飛行機の墜落? いや、まだ家が激しく揺れてる。地震だ。
平成7年1月17日5時46分。
心の底から「死んだ」と思った瞬間が人生で二度だけある。そのうちの一度がこの地震だ。
ウチの実家は、伊丹空港の空襲のもらい火で焼けた後、無理やりに建てた築50年の木造住宅。しかも戦時中に突貫工事で造ったから基礎がない(石の上に柱を乗せているだけらしい)。なのに無理やり二階を増築しているのだ。耐震構造? 何それ? 関西に地震なんてくるワケないやろ! というどうしようもない家なのだ。まぁ“これでもか!”というくらいに揺れに揺れた。よくぞ倒壊せずに持ってくれたものである。
余震が一段落して朝8時になると高校に向かった。99%休校だろうと確信していたが、「あと1回でも体育の授業を遅刻すると留年決定」と死刑執行宣告を受けており、しかもこの日の1時間目が体育の授業だったのだ。ツケというのは、本人が一番困る瞬間に出るもの。この後も、何度も思い知らされるのだが、それはまた別の機会に。
家から100mほど行くと、工場の40mはある煙突が真っ二つに折れて民家を直撃していた。瓦という瓦が散乱し、道路にはあちこちに亀裂が入っている。学校に着くころには99%は100%に変わっていた。
学校にはコーヘイがいた。
「ようこんな日に来たな?」
「今日の1時間目遅刻したら留年やねん」
類は友を呼ぶとはこのことだ。ただ、よんどころのない事情を抱えた我々以外にも、こんな日に、学校に来る同級生や教師がいる。日本人はマジメなものである。
教師や同級生たちと安否を確かめあったあと、30分ほどで下校。私とコーヘイは友達の家を訪ねて、安否を確認しながら帰ることにした。
タケシの家は無事だった。しかし小学生時代からの愛読書が『優駿』と『週刊競馬ブック』というタムちゃんの家は、外壁がはがれて、家がひしゃげるように半分潰れていた。
「タ~ムちゃ~ん! あそぼ!」
励ましてやろうと冗談じみて呼び出したのだが、顔面蒼白になったタムちゃんが家から出てきて力のない声で言った。
「ふざけんのもええかげんにしろや」
「冗談やん」
「言っていいときと悪いときがあるわ」
「え? ひょっとして……」
「家族は無事やけど……。おまえら駅行ってへんやろ?」
「駅? 何かあったん?」
「行ったらわかるわ」
嫌な予感がして無口で自転車をこいだ。駅につくと、二人は一分間ほど絶句した。3階建ての伊丹駅の1階部分が完全に潰れて2階建てになっていたのである。
家に帰ってニュースを見ると、阪神高速神戸線が横倒しに倒れていた。そして神戸の町が燃えていた。こんな大規模な災害が起こるとは思いもしなかった。
週末の1月21日と22日。関東では中山競馬が開催されたが、京都競馬は休催。関西圏のウインズでは馬券の発売がいっさいなかった。中山メインのAJCCはサクチトセオーが勝ったのだが、このレースの記憶は今でもほぼない。
(つづく)