幽霊作家㉚
製本するために必要なものは、流石に家電量販店には無かったので、途中大きい文具店によって家に帰って来た。
今回の買い物で、一番高かったのはコピー機。ゆめさんの家にあったような業務用を買おうかとも思ったのだけれど、本体が高いだけでなく、インク――トナーと言うらしい――も高価で手を出す気にはならなかった。
お金に余裕があっても、基本は貯金が減っていくだけなので、一気に減ると怖くなるのだ。
ただ小説一冊分を印刷しようとした場合、家庭用だとどれくらい時間がかかるのか、考えただけでも気が遠くなる。
コピー機は明後日届くことになっているので、今日はバックアップの作業だけでもしようかと、一応ゆめさんに確認を取ってからパソコンを開く。
「ところで、萩原さんが今後どうしようと考えているのか、教えてもらっていいですか?」「僕もその事で、ゆめさんに訊きたい事があったんだよ」
ちょうどいい話題が出たので質問しようと思ったけれど、先に質問したのはゆめさんだから、一度落ち着いてこちらから答えを返す。
「ゆめさんの名前を世に出すにあたって、藤野御影と連絡を取ってみようと思うんだよね。
話し合いが上手く行けば、もっとも穏便に話がつくだろうし」
「絶対に話し合いでは決着つかないと思いますけど、相手に何も言わずにって言うのがフェアじゃないとか考えているんですよね」
ため息交じりのゆめさんに、「ごめんね」と謝る。ゆめさんは「萩原さんがしたいなら止めませんよ」と首を振った。
「全部終わったら、ゆめさんのご両親にパソコン類は返そうとも思っているかな」
「気を遣っていただけるのはありがたいですが、下手に行動したら、萩原さんの立場が危うくなるかもしれませんよ?
パソコンは私が萩原さんに譲った体で良いですけど」
「全部終わった後だからね。大丈夫だよ。
それよりも、ゆめさんの本名を教えてくれないかな? 誰と連絡を取るにしても、ゆめさんの名前が分からないって言うのは都合が悪いし」
追及を恐れて話題を変えたけれど、効果はてきめんだったらしく、パソコンの事を忘れてゆめさんが「本名ですか……」とそっぽを向く。
ゆめさんと出会って数か月、本名を隠していたゆめさんとしては恥ずかしいだろうが、こればかりは知っておかないと、それこそ僕の立場が危うくなる。
「瀬良つぐみです。浅瀬の瀬に良い、平仮名でつぐみと言います」
「つぐみちゃん……瀬良さんの方が良いかな?」
「出来れば、今まで通りでお願いします」
ぐったりとゆめさんが頭を垂れた。ただの自己紹介も、引き延ばし続ければ、これだけの労力を要するのか。
からかってみたい悪戯心が顔を覗かせるけれど、ゆめさんが可哀想なので、「ゆめさん、わかったよ」と敢えて名前で呼んだ。
「それにしても、ゆめさんって、本当にあの暗号好きだよね」
「やっぱり気が付くんですね。『せ』と『つ』が『ゆ』と『め』になるって」
「僕の中で、ゆめさんと言えば、だからね。とりあえず、当てはめて置けば何かわかるんじゃないかなって思っているよ」
「下手に萩原さんに、ノートとか見せられませんね」
ゆめさんがノートにまで暗号を使った文字列を書いているかは置いていて、クスクスと笑う様子を見る限りだと、本気で言っているわけではないだろう。
基本的に文字情報しかないためか、バックアップが予想以上に早く終わった。
比較的持ち運びが楽な、USBメモリー――人に渡すことも考えて、何本も買って来た――にもデータを移しながら、ゆめさんとの会話を再開する。
「これが終わったら、小説完結させようか」
「良いんですか? 成仏するかもしれませんよ?」
「たぶん大丈夫じゃないかな。今のゆめさんの未練は、自分名前で本を出版する事なんだから、早くて出版が確定するまで、遅くて本の売れ行きを見るまで、だと思うんだよね。
ゆめさんがいなくなったら、僕の名前で出版するかもよ?」
「萩原さんに限って、そんな事するわけがないと、信用していますよ。
それに、藤野御影の名前で出るくらいなら、萩原さんの名前の方が良いです」
冗談を言ったら、冗談が返ってくる。本当にゆめさんとの距離が近くなった。
本名は今日初めて聞いたけれど。
「こうやってコロコロ変わると、未練って何だろうって思いますけどね」
「幽霊になって、今まで出会った事のない人に出会って、考え方が変わるって言うのは、人間なんだから十分にありそうなものだけどね。
死ぬまでは何とも思っていなかったことが、死んでからは大切なものに感じる事もあるのかもしれないし」
「萩原さんの言う通りかもしれませんね。
生きている時に萩原さんと出会っても、情けない人だ、くらいにしか思わなかったでしょう」
「情けない人で正解だけどね。
ともかく、完成させても大丈夫なはずだから、早く書き終えて、消印を押して貰うところまで行きたいかな」
こういうのは早いに越したことはない。僕が何を言っても、最終的にはゆめさん次第にはなるけれど、今回は「そうですね」と僕の話を聞きいれた。
「製本するにあたって、簡単に表紙もつけますから、お願いします」
「表紙って事は、名前も要るよね。どうするの?」
「ペンネーム、考えていたんですけどね。今となっては本名の方が良い気がします。
そうしないと、私だと分かってくれる人が居ないでしょうから」
今まで正体を隠さざるを得なかったゆめさんは、同時に自分が小説を書いている事を、誰にも言えなかったのだろう。
ゆめさんが選んだ道だが、自分がやっている事を誰にも言えないのは、苦労もあったのではないだろうか。傍からだと、無職のように見えるだろうし。
「『ゆめ』がペンネームじゃないの?」
「『ゆめ』でも良いんですけど、既に使っている人が居ると思うんですよね。
だから、苗字のようなものを付けた方が良いかなと。『萩原ゆめ』とかでどうですかね」
「前々から考えていたんでしょ?」
使うつもりはなくても、取ってつけたような名前にするのはいかがなものか。
ゆめさんなりの冗談だとは分かっているので、軽く流して、瀬良つぐみの一作目の完成を促した。
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