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幽霊作家⑳

 目が覚めて時計を見たら、いつも起きる時間よりも、一時間遅かった。二度寝だったから、体内時計が狂ったのだろうか。

「起きたんですね」

 何処からともなくゆめさんがやってくる。その声は暗に今日は遅いと言っているようで、否定できなかった。

 挨拶を返してから、顔を洗いに行こうとしたら、沢山の紙が玄関にぶら下がっている。

 あとで片づける事にして、必要な分だけ先に外して、顔を洗う。だいぶ意識がはっきりしてきたところで、昨日までの事を思い出した。

 達成感も無く、ただただ耐えていた数十時間と言ってもいいだろう。人によっては美徳だと持て囃しそうだが、僕にしてみたらつらい時間でしかなかった。

 リビングに戻ると、ゆめさんは僕と違い晴れ晴れとこちらを見ている。

「昨日はお疲れ様でした。何とか終わりましたね」

「そうだね」

「反応薄いですね」

 不満そうにゆめさんが口を尖らせる。きっとゆめさんは、執筆中の事を忘れているのだろう。今はともに疲れをねぎらいたいとか、達成感を共有したいとか思っているのかもしれないが、とてもそう言う気分にはなれない。

 謝ってくれるとは思っていなかったけれど、今は感情を殺すので精一杯。

 何とも子供っぽいが、幸いゆめさんが「確かに疲れましたよね」と引き下がってくれたので、何も言わないことにした。

「一応、編集からの返信見た方が良いんじゃない?」

「そうですね」

 ゆめさんの許可を取り、メールを確認する。締め切りは守れていたので、特に何か注意されることも無く、原稿はこれで良いという旨の返信。

 ゆめさんからも、特別反応も無いので、問題ないと言う事だろう。

「ちょっと前に送ったメール見ていいかな?」

「何か問題がありましたか?」

「昨日みたいにメールを任された時に、ゆめさんを演じないといけないからね。

 一応確認しておきたいかなって」

「萩原さんに任せたところだったら、問題ないですよ」

 ゆめさんからの許可を得たので、一通りメールを見返す。

 夜中にもやったので、暗号の確認と言う事になるけれど、やはりこの暗号を僕が見る分には問題ないらしい。

「次の締め切りとか、打ち合わせとかっていうのはどうなっているの?」

「打ち合わせはないですね。初めからシリーズものにする予定だったので、一回目の打合せで最終回まで終わらせています。

 急な変更解かない限りは、新しい打ち合わせはありませんし、やり取りもメールで行うので仮に打ち合わせがあっても大丈夫です。

 締め切りはあとから連絡が来ると思いますが、二、三か月くらいでしょうか」

「今は全体のどれくらいまで進んでいるの?」

「次で最終巻の予定ですよ」

「じゃあ、ゆめさんとの付き合いも、そこまでって事だね」

 想像していたよりは、だいぶ短い。しかし、ゆめさんが満足するのが作品が出来上がってからなのか、それとも、店頭に並んで初めて満足するのか、僕は勿論本人も分かっていないのではないだろうか。

「最終巻なのでスケジュールを読み難いですが、次で最後なのは変わらないですから、萩原さんの頼みをそろそろ訊かせて貰えないですか?」

 訊かれるとは思っていたけれど、どう説明したものか。まだ本題を話すつもりはないので、ぼんやりと何をしてもらうかだけ、伝える事にしよう。

「ゆめさんの名前を一度だけ借りたいんだよ」

「何か本を出したいって事ですね。私は既に死んでいますし、名前くらい別にいいですけど、出版するかどうかを決めるのは私じゃないですよ?」

「ゆめさんが書いてくれたら、そこそこな作品になるんじゃないかな?」

「あー、はい。分かりました。あと一冊も二冊も同じですからね」

「何を書くかは、ゆめさんの方に目途がついてからでいいよ。また締め切りギリギリになるのは嫌だし」

 基本的にゆめさんを優先する提案が、反対されるはずも無く、ゆめさんは頷いて応えた。

「ともかく、今日は休みにしましょう。私は余裕を持って執筆できるスケジュールを考えます」

「じゃあ、僕はマスターから出された暗号でも考えようかな」

 名前と盗品から考えるのは、もう無理だと思うので、名刺の裏に書かれた文字を見てみる。

『五十一』と『りいのをてこしえるあ』。後者は暗号だろうから、ヒントは五十一の方だろう。しかし、五十一にピンと来るものはない。

 近い所だと平仮名の五十音で、五十だろうか。『あ』のつく人から『あ』とつくものがなくなる、と言うところからも、五十音は何か近い気がする。

 だとしたら、あまりの一は何だろうか?

 頭の中に五十音表を思い浮かべて見たところ、一つ飛び出した文字がある事に気が付いた。

「ゆめさん一つ訊いても良い?」

「暗号関連ですか? 別に構いませんけど」

「マスターが言い忘れたヒントってないの?」

「しりとり、ですかね」

「ありがとう」

「いえいえ」

 ゆめさんから、求めていたヒントを得て、再度暗号と向き合う。今の反応的に、ゆめさんに答えを訊いたら教えてくれそうだったけれど。

 まず、五十一とは『や』行と『わ』行をそれぞれ『やいゆえよ』『わいうえを』として、『ん』まで含めた、五十一の文字の事。

 次に交換の法則なのだけれど、『あ』と『い』だけ例外的に盗られただけだったのは、置くべきものが無かったからなのだろう。しりとり的には『ん』から始まる言葉はないから。『を』についてはあとでゆめさんに訊いてみるけど、パッと『を』から始まる言葉は思いつかない。

 つまり、『あ』は『ん』、『い』は『を』、『う』は『わいうえを』の『え』と言った感じに、五十音順と反五十音順を対応させているのだ。

 色々穴があるようにも見えるけれど、この法則を『りいのをてこしえるあ』に当てはめたら『こおひいむりようけん』つまり『コーヒー無料券』となる。『い』と『え』に関しては、二つ文字が当てはまるけれど、言葉になる方をと考えたらもう一つは当てはまらない。

「解けましたか?」

 顔に出ていたのか、丁度答えに行きついたところで、ゆめさんに話しかけられた。

 訊きたい事もあるし、短く答えを伝える。

「コーヒー無料券だよね」

「正解です。小説とは暗号の文字自体違いますから、マスターさんの粋なはからいでしょう」

「『を』ってしりとりで使えないの?」

「『を』で終わる言葉が無いんですよ。確か。人名とか旧仮名遣いだとあるのかもしれませんが、それを言い始めたら『ん』から始まる言葉も結構ありますからね。

 ついでに『を』で始まる言葉には『をこと点』ってのがありますが、実質無いんだと思いますよ」

「一応あるなら、素直に交換した方がすっきりしたんじゃないかな?」

 ゆめさんに言う事ではないのかもしれないけれど、同じ作家という観点からなら面白い意見が返ってくるかもしれない。

 ゆめさんはまるで、答えを用意していたかのように、すぐに話し始めた。

「元々は『ん回し』と『をこと点』を使うつもりだったんですけど、特に『をこと点』が分かり難いと言う事と、『あ』と『ん』、『い』と『を』を真っ先に交換したら、謎解きの難易度一気に下がるんですよ。だからしりとりを組み込んで、不要だとこじつけました」

「なるほど、良く知っていたね」

「藤野さんが言っていたんです。面白さを優先したんだって」

 簡単に謎が解けてしまったら、確かに面白さは半減するだろう。

 ゆめさんの話しぶりが、いかにも当事者のそれだったのだけれど、自分の事のように感じるほどのファンと言う事か。

 おそらく、僕のような意見はいくつも出ていただろうから。

「無料券、使えるかもしれませんし、行ってみないんですか?」

「マスターのところね。行き過ぎても迷惑だろうし、また今度かな。あそこのコーヒー高いし」

 いくつも種類があって、値段も違うが、高いものだと一杯千円以上もする。

 お金に余裕があるとはいえ、気軽に行ける店でない。

 ゆめさんも積極的に行きたかったわけではないようで、「そうですか」とすぐに何かを考え始めた。

 一つは解けたけれど、暗号はもう一つある。

 全くヒントがないような暗号だったけれど、パソコンのパスワードが平仮名の暗号をもとにしているのだとしたら、ゆめさんが編集に送った暗号ももしかするかもしれない。

 ローマ字だから『a』を『z』に『b』を『y』にするわけだが、『zmzgzsz svmhbf』の前半、妙に『z』が使われている。『a』つまり母音が二回に一回程度使われているわけで、信ぴょう性はある。

 とりあえず手を動かしてみるかとは思ったけれど、先ほどの五十音の時もそうだったが、文字の一覧表があるわけではないので時間はかかってしまう。昼食も忘れて、数時間頭の中のローマ字と戦った結果、『anataha hensyu』に至った。

『あなたは 編集』と読めるけれど、ゆめさんが本物だ、と伝える暗号ではなかっただろうか。

「あなたが編集だと分かっている私は、本物だ」って事かもしれないけれど。

 トイレに行くために部屋を出たところで、目の前に白い何かが現れた。

 玄関の原稿をそのままにしていた事を忘れ居ていたらしい。トイレを済ませた後は、その処理に追われることになった。


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