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幽霊作家⑫
ドアを開けて、誰もいない家の中に入る。靴を脱いで、いつものようにリビングに向かう途中で、「ただいま」と聞こえたので「お帰り」と返した。
靴を脱ぐ必要のないゆめさんは、すぐに僕に追いついて、嬉しそうな顔をして追い越して行く。
何がそんなに嬉しいのだろうかと考えていたら、すぐに答えが返ってきた。
「やっぱり、お帰りって言って貰えるのはいいですね。忘れちゃいけない、温かさがあります」
「どれくらい一人暮らししていたの?」
「大学を卒業してからなので、一年たったところでしたね。仕事の都合とは言え、家に自分しかいない状況は寂しかったです」
そこまでして、家族に自分が作家である事を隠したかったのだろうか? 疑問に思いつつ予定通りクーラーをつける。
一連の行動を、不思議そうに見ていたゆめさんが、「寒いんですか? 暑いんですか?」と首を傾げた。
「二百段近い階段を二往復したから、汗かいてきちゃって」
「言われてみたらそうですね。でも、そんなに温度下げるほど、暑いですか?」
会話に紛れて下げていたので、気づかれないと思ったのだけれど、駄目だったらしい。
既に設定温度は二十度を下回っているので、問題はないのだけれど。でも寒い。
我慢も出来ずにくしゃみをしてしまったせいで、ゆめさんが「やっぱり寒いんじゃないですか」と白い目を向けた。
いたたまれない中、クーラーの電源を落とす。
「で、何でクーラーつけたんですか?」
「何でもないよ」
ゆめさんはじっとこちらを見てから、「そう言う事にしておいてあげます」と、息をついた。誤魔化せたわけではなく、目を瞑ってくれた感じだったが、納得してくれたとして話を変える。
やはり、ゆめさんは気温を感じていないらしい。
「今日の女の子」
「やっぱり気になるんですか?」
「ちょっと落ち込み過ぎかなと思ったんだけど、ゆめさんはどう見る?」
にやけていたゆめさんが、露骨に嫌そうな顔をして「無視なんですね」と口を尖らせる。
ころころ表情が変わる人だなと思っていたら、「そうですね」とゆめさんが質問に答え始めた。
「大学生みたいでしたし、初めてのバイト代で買ったばかり、とかでしょうか。
大学に入学して一年、慣れて来てバイトを始めたのが先月で、バイト代を貰ってようやく買えたカメラを失くしたら、あれくらい落ち込みそうです」
やっぱり作家だから――というのは好きではないけれど――だろうか、ゆめさんの話は聞いていて楽しい。
想像と推理とを使って、出来事のバックグランドまで話してくれるのもあるけれど、楽しそうに話してくれるのが大きいのだろう。
「何か言いたい事でもあるんですか?」
「ゆめさんは、楽しそうに話すなと思って」
「何ですか急に」
「訊いたのはゆめさんだし、言わないと伝わらないからね」
ゆめさんとは察せるほどの中ではないし、本当に相手の心の内を察することは出来ないと思うから、誤解を生まないようにすることは大切だと、僕は思う。一概には言えない部分もあるけれど。
「萩原さんって、偶に反応が悪い時がありますよね」
「急にどうしたの?」
「言わないと伝わらないらしいので、言ってみたんですよ。答えられないなら、無理に答えなくても大丈夫ですが」
意趣返しと言う事か。隠す必要も無いので、答えるのは良いのだけれど、果たして答えになるのだろうか。
「基本的に日和見主義だからね」
「日和見主義と、反応が悪いのと、どう関係するんですか?」
「何でこの人はこういう事を言うのだろうかと、考えちゃうんだよ。
酷い事を言っているようだけれど、何か仕方のない理由があるんじゃないかとか。
あとは自分がしようとしている言動が、不用意に相手を傷つけないかとかね。だから反応までに時間がかかることがあるんだよ」
「そう言う事だったら、日和見主義の使い方を間違っていますが、言いたいことはわかりました。難儀な性格していますね」
ゆめさんの返しから、理解してくれたのだと判断して、呆れた声に返事をする。
「誰にでもやるわけではないし、いつでもやるわけじゃない。他人の味方ばかりになるのも確かだから、お勧めはしないね」
あちらを立たせようとすると、こちらが立たず。こちらを立たせようとすれば、あちらが立たない。気が付けば、考えに囚われて何もできなくなる。
何も言えず、何もできなければ、言いたいことがあった、やりたいことがあった自分を蔑ろにすることになると言うわけだ。
「萩原さんの勧めですからね、勧められないでしょう」
「凄い言葉だ」
「でも、間違っていないですよね?」
「もちろん」
これが僕とゆめさんの契約だから、正面切って否定してくれないと困る。
でも、一度か二度、ゆめさんの否定に対して、言い返さないといけないだろう。いつになるかはわからないけど。
これもやっぱり、ゆめさんとした約束だから。
「そう言えば、返信来ているんじゃないかな?」
「確認して貰ってもいいですか?」
ゆめさんに言われて、ノートパソコンの電源を入れる。覚えていなかったパスワードを、教えてもらい、メールを確認したところ、新規に一通メールが届いていた。
『次があるかはわかりませんが、気を付けてください。もうすぐ締め切りですので、こちらもお忘れなく。
締め切り前に送っていただいても、こちらは全然問題ありませんよ』
前回は例外として、仕事上のメールだから、もっと形式ばったものが来ると思っていたけれど、最後の一文に茶目っ気が見えて僕的には好感が持てる。
「では、『分かりました。作品が出来次第また連絡します』みたいな感じで返信しておいてください」
「適当な感じで良いの?」
「他に書く事も無いですからね。重要な事でもない限りは、大体こんな感じですよ」
やはり悪くない関係だと思うのだけれど、きっと会社にばれたら咎められるのではないか。作家と編集のメールは見た事が無いので、はっきりとは言えないけれど。
カタカタと手早く打って、返信する。
「これで、一先ずは安心ですね」
「安心するのは、締め切りを守れたあとだと思うけど」
「大丈夫ですよ」
想像通りの返答に、曖昧に笑って返すことにした。
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