しっかりしているね


「あなたはしっかりしているから安心だよ、頼むね。」
「どうしてこんなにしっかりしてるのかしら、驚いちゃう」
「あなたはしっかりしてるから心配ないよ。」


きっと私の知り合いの100人に私の印象を聞いたら100人中90人は「しっかりしている」と答えるだろう。


考えるOLさんの『がんばらないことをがんばるって決めた。』にこんな一説がある。

「私は、ただしっかりしないと、ちゃんと生きられないだけだった。」


この文章を読んだ時、自分の現実を突きつけられたかのように胸が抉られつつも、自分の人生を受け入れるきっかけのようなものを掴んだ気がした。


幼い頃は他人からの あなたはしっかりしています の評価に対して他社よりも優れていると言われている気がして嬉しい時期もあった。

けれど高校生の頃に一番の親友が、家庭の事情を背負うことになった時に先生たちがその子のことを一斉に心配をした。
それは自然なことであるし、先生たちのように言葉にはしないものの私も私なりにその子のことを気遣ったりした。

先生たちのなかでもわたしたちと特に仲の良い先生が2人いた。
学生のストレスが大きくなる受験シーズンを迎えるということもあり、仲の良い先生たちが別々に私の親友の近況を聞きにくる日々が続いた。

先生という大人から頼られることが嬉しく感じた私は喜んで協力をし、2人という複数名の大人から頼られているということに優越感も覚えた。
(今だったら2人で情報共有せいと思ってしまうけれど)


しかし私も同じ受験シーズンを迎える高校生。
他同級生と比較した際に思考の深さや視野の広さが少しだけ異なっているがゆえにしっかりしているというイメージがつけられ、勝手に心身共に健やかかつ安定した状況であると思われていたが、他人に見せない、聞かせないだけで、願書や面談では見えない家庭の事情を抱えていた。

生まれてから他の家族を知らない17歳の私は、自分の家庭が他の家庭とどのように異なるのか、またなにが問題なのか、問題の要因ななんなのかを言葉に表せるほどの思考回路も語彙力も知識もなかった。


家庭の事情を言葉にできないものの心の動きなどを唯一共有できたのが高校の親友だったため、親友に相談をされる側となった私は、心の拠り所がなくなったために不安定な瞬間を自分の中で感じることが多くなった。

張り裂けそうな気持ちを持ちつつも、他人に頼ることを知らない私は、私が突然全てにおいて機能しないほどの状況になってしまったら、「自分にとっても周囲にとって失われるものが多すぎる、なにがなんでも自分のイメージを守らなければ」と冷静に考えていた。

親友の心の拠り所
積み重ねてきた先生からの信頼
誰にでも優しく穏やかな同級生としてのイメージ
頼れる姉御肌の先輩としてのイメージ
しっかりして頼り甲斐のある後輩のイメージ
問題のない温かな家庭で育ってきたイメージ


高校と家庭が自分の世界の全てであった17歳の私にとってこれらを失うことは自分の人生を失うことそのものであった


けれど私の言葉にならない心情や状況を知らない先生方は、ルーティン化した親友に関する事情聴取をするためにいつも通り私の元を訪れる。

「〇〇(親友の名)は金銭面から受験しないって聞いたんだけど、心情の変化とかなにか聞いてたりする?」

「一応、そこに関しては当初本人も大学行きたがっていたので、私も奨学金制度の説明やバイト代でどの程度学費を賄えるかとかの計算を一緒にして、説得はしてる途中ですね。本人はおそらく行きたい気持ちといけない事情の間で揺れてると思うのでもう少し話聞いてみます。」

「さすが仕事が早い。俺も奨学金の説明しようとしてたんだよ。でも〇〇(私の名前)が説明してくれたなら説明しなくて大丈夫だな。引き続き説得よろしくな。また話聞きにくる。」


ん?

私は親友を思う気持ちからできる限りの知識を使って彼女の望む道への手助けを友達としてアドバイスしているのに、教師は生徒の管理を生徒に任せて、情報収集だけなのはなぜなのか。

教師から頼られることは私にとって嬉しいことだが、仕事として教育者としてこれは頼るではなく都合よく使うということではないかと実感した。


短い人生経験から、大人は自分の弱みをオブラートに包まず言葉にすると知識や経験の不足している子供に対して容赦なく自分の思うように責め立てるという印象をもっていたからこそ、咄嗟に出た言葉は


「先生、私のことは心配してくれないんですか。」


だった。

その言葉で一瞬驚きと困惑で顔色を変えた先生を見て、空気を読むことが必須の人生だった私は追加で

「私も受験生なんですけど」


とそれっぽくつぶやいた。

今でも自分のその時のモヤモヤの気持ちと咄嗟に出た第一声とのつながりをうまく説明できないものの、精一杯の抵抗とSOSの思いから出た言葉だったんだろうと思う。


返答は

「〇〇(私の名前)は心配しないよ〜、だってしっかりしてるもん。あなたは大丈夫だから心配しない。」


ひゅーんと心臓が小さくなって
パタンと小さな心の扉が閉じた瞬間だった。


もちろん今の私のように冷静に自分の気持ちを整理して、言葉にできる術を身につけて自分の家庭の状況を3割くらい話しつつ、ロジカルに話をできていれば先生の返答や対応も異なったのかもしれない。


けれど、そんな経験も積んでいなければ知識も得ていない私はくるっと変えた笑顔で

「たまには〇〇(親友の名)ばかりじゃなくて、私のことも心配してくださいよ〜!」


とおちゃらけて返答してその場を離れた。




こんなに鮮明に会話と情景が浮かんでくるのはきっと私が『しっかりしている』と言われ過ぎた人生において、ここまで甘えられない鉄壁の壁をつくってしまったのかと実感した瞬間だったからだろう。


しっかりしている
あなたは大丈夫


この言葉は時に自信にもなり、時に鋭い牙となることもある


これまでしっかりもののイメージを作り上げてしまったか自分によって、悲しい感情、もどかしい思い、寂しい気持ちを得ることになってしまったのだと自責の念を感じる人生だった。

歳と経験を重ねて、他人は言葉にしたことだけしか理解できないことや、人間は多面的であること、だからこそ他人からの言葉は鵜呑みにしなくて良いことを学んで高校生のように安易に悲しんだり、寂しい思いをする回数は減ったし、少しずつ人に頼ることや甘えることも覚えてきた。

けれど、他人から発さられる自分のイメージによってイメージ通りに頑張らなければと思わざるを得ない状況を窮屈に感じる気持ちはなくならなかった。


「私は、ただしっかりしないと、ちゃんと生きられないだけだった。」


この文章を見た時、今まで自分で作り上げたイメージだからこそ自分で責任を取らなければならないと思っていたけれど、自分で作り上げただけのイメージではないのではと衝撃が走った。


私だって生まれてからずっとしっかりしていたわけではない。
赤ん坊の時は泣くことしかできないし、幼児期にはお母さんにべったりで甘えっ子だったはずだ。

いつしか自我が芽生え、空気を読まざるを得ない環境にいて、自分の船が小さなうちから人生の舵切りをしなければならない状況だっただけではないか。


わたしは自分の人生の上でしっかり者になるという選択をしたけれど、なりたくてしっかり者になったわけではないんだ。
しっかり者でなければ自分の心も体も守れず、生きていけなかったのだ。


自分を、自分の環境を受け入れられた瞬間だった。

メディアや自己啓発本などでよく『人生は全て自分の選択の積み重ね』と言われる。
その言葉は合っていると思うし、私も納得している。



『人生は全て自分の選択の積み重ね』であるからこそ自分で選択して人生を変えられる

『人生は全て自分の選択の積み重ね』であるが、置かれた環境や状況によっては選択肢の難易度や度合い、意味合いは全く異なる

だからこそ全てあなたの選択、かつ責任なのだと大きな言葉だけを人に押し付けてはいけないと思う


自由になりたい姿を選択して、努力で理想に近づいた成功者もいれば、
理想とは異なるものの与えられた環境下で選べる最善の姿を選択して、努力でそれに近づいた人もいる

自分を含め、人は多面的であり、いくつもの状況や経験がその人を形成していることを忘れてはならないなと改めて自分のことを振り返って思った。


言いたいことを全て綺麗に整理できたわけではないし、まだまだ語彙力が足りないと感じるけれど、とにかく考えるOLさんの著書に救われた1日でした。

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