私は作文を手伝わない。
私は、小学1年生の時、読書感想文で表彰された。
学校で誰よりも大きな賞状で、何かの本にも掲載された。
大きな賞状がとっても嬉しかった記憶がある。
でも、その文章は父と一緒に考えたものであった。
どこまで父の手伝いがあったのかは覚えていない。
だが、私の実力だけを評価されたわけではないということだ。
評価されて、お祝いされるたびに、それは父の実力だったのではないかと思うようになった。
どういう経緯で父の助けを借りたのかも覚えていない。
ただ、父の手を借りたのだということが私には残っている。
中学1年生の時、人権作文で学年代表に選ばれた。
小学1年生の時とは違って、学年の先生に評価されただけだったが、嬉しかったのを覚えている。
私だけで書いた文章だ。
私の実力だ。
私の実力が評価されたのだ。
評価された。認められた。
これだけが価値である訳ではないとわかっている。
でも、嬉しかったのは事実だ。
私が、今、過去を思い出しているのは、リビングで妹が人権作文を書いているからだ。
一つ下の妹が作文を手伝っている。
早く終わらせることが目的であるようなので、力を借りているようだ。
学生時代の私が、持っていなかった価値観だなと思う。
これも別に悪いことではないと思う。
私の目的とは違うだけである。
作文を書けずに悩んでいる妹を見ると、つい口を挟みたくなる。
でも、私は、過去に父の力を借りて作文を書いたことを後悔している。
大きな賞状をもらった嬉しさと一緒に、ある種ズルをしたのだということが心に残っている。
文章が正しいか正しくないかはあとにして、思うこと、考えること、自分の意見を書き出すことができる方が大事であると思うのだ。
悩んでも、時間がかかっても、終わらせることができなくても、自分で書いたのだということが、大事だと思うのだ。
だから、私は力は貸さない。
私は今日、自分が宿題は自分でやるべきものだという価値観を持っていることを知った。
そういう価値観を持っていない人がいることも改めて気づいた。
だから、私は力を貸す妹にそれが間違いであるとは言えない。
ただの価値観の相違だ。
手を借りる側の妹が受け入れている以上、何も言わない。
私は自分の価値観に従って、手を貸さない。
それだけである。
目の前にいる妹に言えないことをnoteに書いている。
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