きちんと見ること、目をそらさないこと、感情と向き合うこと
私はいい恰好しいです。
まあ、言ってみれば人格的優等生、みたいな奴みたいです。
だから、誰かに嫌なことを言われたり、嫌な態度を取られたりしたら、それは自分に原因があるのだろうと考えます。
それ嫌がられたこと多数。(笑)
女同士のあれこれ、というのも、存在は知っていても正直、分かりません。
だから、何人かで寄って、そこにいない誰かのことを言うとかいうのに入ることができません。おのずと男子の友人の方が多くなっていた時期もありました。
子どもたちのお友達のお母さまたちとの関係も、あれこれ噂したり、そこにいない誰かのことを良くないことで話題にするのも苦手でした。
明らかにおかしいなという方の場合は別です。
でもおかしくないのに、例えば、自分よりいいお家の方だから、とか、お子さんが優秀だから、とかいうことであれこれ言うなんて、とんでもなく苦手でした。第一、いいお家もお子さんができるも、友人の言う、
羨ましいよー。
にはなりませんでした。
子育てというのはバランスです。
研究者になるのだとしても、それ相応に人間関係も付きまといますし、勉強だけに特化する気もなければ、できなくていいとも思っていません。
が、何か特別なものをもっている子に勉強だけを強要する気もありませんでした。
言ってみればその子その子です。
私は相手がおかしいとなれば、それがはっきりすれば、悪口も言うかもしれないし、面と向かってきついことも言うだろうと思います。
でも、たいてい、自分が何か言われたり、何かおかしな態度を取られたりするのは、やはり自分に原因があるのだろうと思っていました。
だから、初めて勤めたところの、小学校の校長先生の奥様は、その世界では血筋の言い方で、ちょっと言ってやれば、みんな自分のわがままに付き合うといった方らしかったのですが、私の前で、旦那様の意見で私をやり込めようとされても、お子様方の出来で、私にあれこれおっしゃろうとも、私は私が自立して、いかに教諭としての仕事を全うするかということしか考えていませんでした。
だから、それまで見たことのないタイプに、相当苦戦されたみたいでした。
最初に、細かい話ですが、売店で、焼きそばのUFOを買ってきて、と言われて、値段が高いとおっしゃったときに、
なんか、わずかのお金を私がまるで着服しているような言い方をされるな?
とちょっと思っただけで、つまりは相手からしたら、
私に頭下げないと知らないわよ。
といういわゆるお局のようなことだったのでしょうが、そのお局に屈することなどできず、挙句に、周りの人からは、
いやあ、仲いいねえ。なんでかな?と聞いてみたくて・・・。
とまで言われる始末。
そのお聞きになった大先輩もまた、学園では鳴らした、本当に付き合いにくい方でした。
その方も、結果的に相当可愛がってくださいました。
そしてもう一人、まあ、この方はほんとうにかわいがってくださっていたのですが、女傑というような方でした。
私は、アホなのです。
まあ、周りからしたら、まっすぐしてると言ってもらいますが、空気を読めと言われても(空気を読んでいないというのでもなさそうですが。)、とりあえず、空気を読むことと、生徒への仕事を全うすることとなら、迷わず仕事を取ってしまうだけのことです。
周りが、まあ、仕事をあまりにされたら困る、という個人的事情があっても、心底教師の私の性が、周りの目などどっかやってしまい、どうしても使命感が勝つのです。
アホです。わかっています。
ということで、漱石の『坊っちゃん』ではありませんが、あれこれ損もしたけど、結果的に許されて、
まあ、ああいう人だから。
で、可愛がってもらってきたような気がするのです。
みんな笑いながら。
業者さんが来られても、特にお医者様や、経営者のトップの方に多いのですが、私が一生懸命話すのを、ふと見上げると、おかしそうに目と鼻で笑っている、という図を何度見てきたことでしょうか・・・。
こっちは一生懸命だって!
言うてるわ・・・。
という感じ?ふん。
まあ、いろいろな人にお会いしてきました。
考えてみると、そういう人って、その方自身が人間関係で困っておられたり、あるいは周りから好かれていなかったりということなのですが、それはそれ以外の人からは想像できないような、きつい言葉を私に言ってきた人もおられました。
ただ、他の人に対してそうでないから、誰もわかってくれない。
だから相当理不尽です。
それになにがしかの恩があったりもします。
こういう人を類型論で語ってはいけないのだけれど、たいてい、今の自分の立ち位置に不満で、まあ言ってみれば過去に挫折の経験をおもちで、今のご自分にそのことが影響しているという方が多かったのです。
自分はこんな自分じゃないはずだったのに!みたいな・・・。
つまりは、自分より偉い(と思われる人に対しては、大人しくしていなければならない立場。)人の前では、ヘこへこ大人しくて優しい人格者ということになっていたりします。
いや、それがバレていることが結構あるから世の中はおかしいのです。
ただ、そのことにメスを入れたら、やってられないから、
あなたがその辺は上手にやって・・・。
と任されることもありますが、それは大人になった今でも、
無理筋な話です。
第一、強い人はそういうのあからさまですが、弱い人ほど裏に回って巧妙になります。
それは意外に、あの人が!?という人のことも多いものです。
夫や息子の前では虫も殺さぬおとなしい人が、面従腹背で嫁をひどくいびっていて、嫁が至らないという構造にしているなど、その典型だと思います。
とりあえず、周りの評価が、良いものであっても、自分が感じた感情を認めてあげたいと思っています。
誰が優しいとか、人格者だとか、大人しいと言ったとしても、私に対しては違ったのかもしれない。
私の性質が、その構造を作り、その理不尽さを助長するものになったのだとしても、仮にそうだとしても、私は私の怒りを許し、自分の見たものを信じ、ちゃんと感じようと思うのです。その権利があるはずです。
先生にそんなこと思ってはいけない。
親に、そういう感情を抱いてはいけない。
そんな人じゃない。
で済まさず、もしも他人だとしたら、ちゃんと話を聞かなければならないと思います。
数年前、生徒がセクシャルハラスメントめいたことをされていたということを聞きました。ものすごくではないけれど、まあ不快という感じ。
友人に相談していても、まずは私が信じるかどうかが分からなくて(教師同士は同じ立ち位置ですから。)、言えなかったらしいのです。
私が何かを感じていることを察した友人の子が、
今なら先生信じてくれる!
と言ったらしく、打ち明けてくれました。
その話を聞くや、私は電話をし、理由は別のことにして、即座に解雇しました。
それ以上の対応ができないか?と悩みましたが、ある先生に相談すると、それ以上の対応はないと言われました。
とりあえず、勘違いかもしれなくても、信じてもらえるだけで人は救われます。もし勘違いであったとしても、受け入れてもらっただけでも助かります。
それからの人生で怒ることに対処する術ももつことができます。
正直、私自身がそうされたかは別にして、客観的事実として、セクシャルハラスメントのないところはありませんでした。いじめだって程度はあれ、あれこれなくはありません。
だから、その対象があまりにも程度の甚だしいときには、解釈を変える前に、その後の人生にどう影響するかを考える前に、自分の感情に素直に向き合うことも大事だと思っているのです。
目上だからそういうことを思ってはいけない、自分が至らないから言ってくれている、という解釈もできます。
でも、相手の動機まで美しくないものを美しく考えることはありません。相手の感情はどうあれ、自分がしんどいならしんどいことを認めるべきです。
ただ、その後、どうするかということは別問題です。
耐えられないようなことだとしたら、それは耐えてはいけないから
SOSを発信するべきです。
確かに、その出来事が自分を強くし、その後の人生をうまく乗り切る力を培ってくれることもある。
でも、耐えてはいけないこともあります。
ちゃんと見る。
相手の気持ちも、自分にとって、非常に都合の悪い、嫌なものでも、ちゃんと見つめる。その先は自分なのだから。自分が憎まれることが嫌でも、相手の気持ちをしっかり受け止めて、それにちゃんと対処することが大事です。
他人だから、誰がつぶれても、誰が嫌な思いをしてもいいというはずはない。
ましてや、自分のメンツや、自尊感情のために、誰かを傷つけたり、誰かを貶めていいわけがありません。
勝手に蒔いた種を刈り取るのはその人なのだけれど、そのことに対するされた側の自分自身での整理の仕方って大事だと思います。いつまでもトラウマだなどと言っていいわけではありません。そのトラウマは次に進むために癒されるべきです。
周りから気のせいだとか、あの人はあっさりしてるから、と言われて無理やり納得するのは解決策になりません。
周りもちゃんと聞く。自分自身もちゃんと対応する。
そういうことが大事だと思うのです。