子どものときは、思いっきり甘えさせる派な私。
〇〇年前の今頃、私は、チャイコフスキーの「弦楽セレナード」を聴きながら、そして、斎藤茂吉の『赤光、あらたま』の歌集を写しながら娘が生まれてくるのを待っていた。
女の子であることは、わかっていた。
なかなか生まれて来なかった。私は、娘と対面する喜びを想像するより、周りの、「なかなか生まれないね。」という言葉に、まるで劣等生のレッテルを貼られたように、半ば参っていた。
そんな想い、彼女と対面したら、忘れてしまった。
可愛くて可愛くて、側にいられることが嬉しくて、存在そのものが喜びだった。
それから、子育てを苦痛だと思ったことなどほとんどなかった。
もちろん、慣れない土地、慣れない人間関係に、悩んだことがないわけでも、今となっては、大好きな雪も、降った日には身体が反応して、起き上がれなかったこともある。
でも、単純に子育ては楽しかった。
子どもたちは可愛かった。
だから、たくさんたくさん抱きしめて育てた。
勉強することを教えるより、意志を育てたくて、子どもたちの気持ちを必死で聴いていた。
子どもたちは、少々のことではへこたれなかった。
強かった。
あちこち引っ越したり、里帰り出産のためにかわいそうなことしたけれど、なんとか気持ちに寄り添う努力だけはした。
さぞかし出来の悪い親、ということになってるだろうことは想像がつく。
けど、精一杯可愛がった。抱きしめていた。
女の子だから、可愛い💕ものを持たせてあげた。
どれだけ可愛いく想ってるか、絶対何分の1、いや、何十分の1もわかっていないだろう。
でも、若いながら精一杯可愛がり、精一杯守っていた。まだまだ慣れない場所で苦しかったけど。
子どもたちの想いは別にして、若かった頃、自分が一生懸命だったことは、だれにも持っていかれない、私の中だけの思い出。
今、大好きな通りになった場所を、心細い想いで歩いていた妊婦の若い娘を想像して、私はなんだか当時の自分が愛しくなる。
それでいい。
その娘は、そのあと、その街が大好きになり、そうして、あちこち旅だっては戻ってきて、大好きな教育活動をすることになる。
出会ったり、別れたりを繰り返しながら。
たくさんの人に出会い、いろいろ学ばせていただいてきた。
たくさん親切にされてもきた。素敵なものなら、それは素晴らしく嬉しい。けれど、相手の気持ちや動機など関係なく、私は、勝手にいただくものだけいただいて、愛する者は守り抜き、周りと楽しく過ごしてきた。
いつの間に時間が経ったのだろう?
ただただ変わらないのは、私の子どもたちへの愛しい気持ち。(笑)