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成功かどうかなんて、ずっと後にならないとわからないわけで、もちろん停滞もあるわけで。(笑)

私の人生を振り返ると、もうこれで終わりか?と思うことがたくさんあった。
というのは大袈裟に聞こえるかもしれない。
けどもその最初は、小学校五年生と六年生の担任の先生のせいだった。
もう毎日死にたいくらいの気持ちで生きていた。
いや大袈裟に聞こえる。それは認める。
でも、日常的に、今の言葉で言うなら、もう教室内DVもモラハラも横行していて、それまでの担任の先生との人間関係とは大きく変わってしまい、私の学校生活は、もう明るいものではなくなってしまっていた。
ここに家の母の勝気さも関わって、母は家庭訪問で、どうも先生の地雷を踏んでしまったようだった。

母に助けを求めることはできなかった。
なぜなら、妹が、このままだと支援学校に行かなくてはならないかもしれないと言われるほどの先天的な遠視性弱視だということが、幼稚園の時にわかり、普通の小学校には通っていたが、妹のことで母はいっぱいいっぱいだったから、それに兄も好き勝手していたから、私が母に精神的負担をかけるわけにはいかなかったのだ。

とりあえず勉強してどこか地元とは違う学校には行ってみようかなと思いながら勉強していた。もうそもそも勉強に逃げていた。
その後の人生で、この、

勉強に逃げる。

という手法はよく使った。
私は、言ってみれば勉強が好きなのである。
いや受験に親和性のある方でないことも認める。
定期テストより絶対的に実力テストの方が良いタイプ。
だって、どこそこに入るためにと言う勉強の仕方をしないし、だから受験のためにどこか塾に行ったということもほとんどなかった。(笑)
確かにこれは笑える。

後年、私は予備校での指導がとっても楽しくなるのであるが、矛盾しているくらいに笑える。

もう、周りの人の(いやどれほどお好きかはわからないけど?)、カラオケに行くとかテニスするとかいうレベルで、私は勉強が好きである。
だから、よく言う。

私なんて、ジャージにトレーナーで図書館に放り込んでおいてくれたらそれでしあわせ・・・。

もうお料理ができなくても、音楽が自分の生活からなくなっても、そうドライブしながらクラシックが聴けなくても、何だったらピアノが弾けなくてもいい。
猛勉強させておいてくれたらほんとうにしあわせである。

ということで、嫌なことを忘れるために勉強に逃げた。

それからも、受験に向けての勉強が好きになれなかったり、学問したくて困ったり、だから大学に入ってからの勉強はめちゃくちゃ面白くて、そうそう頑張らなくても単位は取れるのに、わざわざいらんことをしてまで勉強をする仕組みまで作ってしまった。

でも一方若者独特のこともしなければと思っていたのか、応援団吹奏楽部に入ったし、京都の面白さは満喫した。

とりあえずやればいいんだ。
とにかくその時その場の目の前にあることを、とにかく一生懸命にやりさえすれば人生は拓いていく。
そして苦手なことも、一生懸命にやっているうちに、結構得意なことになってしまうこともある。

一つには、ケーキ作り。
先日も母と私のお気に入りのケーキ屋さんでケーキを三つ選んで、これは母と私と一つずつ好きなのを選んで、それからダメ押しでおいしそうな生レモンケーキを追加した。

これがヒットで、梶井基次郎の『檸檬』ではないが、

つまりはこの黄色なんだな。つまりはこの酸味なんだな・・・

と実感するほどのおいしさだった。
コーティングされた檸檬の酸っぱさと、思うに内部のレモンカードが効いている。
本当においしかった。
嫁に来た頃全く作れなかったケーキも、食べれば、そのケーキの作り方を考えてしまうくらいには作ってきた。

お店の窓から素敵な街並みを眺め、紙コップ一杯のおいしいコーヒーを飲みながら思い切りゆったりした時間を過ごせた。

思えばかつて、その場所から母に電話をし、情けない話をしたことがあった。
自分はいいことだと思っているのに、周りが分かってくれなくて、自分を理解してくれないように思えて、泣き言を言ったのだった。
その時のいでたち、持っていたバッグの形まで覚えている。

母は、

何事かをなすときにはそういうものよ。何言うてるのん?

と励ますというよりも信念を語ってくれた。
この人の信念が私の思いを強固にしてくれる。

とはいえ、この人は困ったちゃんでもある。
人が意地悪をしないというのがデフォルトで生きていて、その意地悪に気付かないし、もし気付いたらとんでもなく反撃するほどの恵まれた人なので、
弱る。この人と付き合っていて、私の人間関係を考えると、世の中には悪い人しかいなくなってしまう。(笑)

この人の困った癖は、人が大変な時に、まるで、

空気を吸うように、


普通の悩み事を話すのである。
それは私が予備校生たちから、

先生って、漫画を読むように文章読みますよね!

とか、

先生って、空気を吸うみたいに古文読みますよね!

と表現されるのと同列のありさまである。
数日後に隣の県にある某大学に、ある試験を受験しに行くという娘に、それは相当に大変な試験だというのに、

あのなあ、こないだ○○さんとしゃべってて、私が言うたことが間違ってたらどうしようかなあ・・・、と思て・・・。

などと日常会話のとんでもなく些末なことを相談するのである。

これは当時かかりつけだった先生に話すと、というより訴えると、

あなた、それ自分で分かってるかどうかわからんけど、お母さんとそっくりなん、わかってる?


と言われた。
とりあえず責任論の部分だろう。(笑)
そんなことまで責任持つな!というわけであろう。
私が図書館から出てお弁当を食べて、ちょっと母に電話してみたらこれである。

思い出せばそうだった。
演奏会前であろうと受験前であろうと、そういうなんて言うか日常生活的な、非常に癇に障るような些細なことを相談されて、思わず企業戦士たちの、妻に些細な話を振られてイライラしてしまう気持ちが分かってしまった。
当然私は、夫の状態を察知してあれこれ気を配ってきた。

でも、信念系の話になると、めっぽう頼りになってしまう。
私を信じているという点において、この人の言葉はものすごく力強い。
この娘だったら、何とかするであろうという固い信念がある。

そうだったそうだった。
私は何かに何とかしてきた。本当に。
これほど大変なことある?という場面でも結構何とか潜り抜けてきた。
演奏会だっていつも本番は大丈夫だった。
いつもよりいい演奏ができた。

とりあえずその時その場でできることをコツコツやってきた。
もう考えている暇などない。
ただただ一生懸命。
自分の感情も体力もなんも考えずにあれこれやってきた。

そして何とかやってしまっていて、結局結果が出たころには、

なあんや!こんなことになるんやったら、なんであんなに悩んでたんやろ?


といつも思ってきた。

ということを確認してきた数日だった。
どうもここ最近、夏期講習の忙殺が、ちょっとずつデクレッシェンドしてきていて、つまりはそれまでの、

何も考えずとにかく指導!

という生活から、またまたちょっとずつ日常生活が戻ってきているのである。
というか、生活に必要な行動もしなければならなくなってきていた。

母と一緒に、母に泣き言を言っていた場所の近くで、母とホッと一息、ケーキとコーヒーをいただいていた。
ああ、あの頃は何だったのだろうか?

誰も知らない私の姿。

とりあえずは、何かをやっていればどうにかなっていく。
そういうものだと思う。
投げ出したくなったり、逃げ出したくなったりしたことはたくさんあった。

○○年前の今頃は、息子が生まれてくるのを待ちながら、その後、また札幌の社宅に帰ることも考えてしまい、決して楽しみだけの日々ではなかった。
けど、生まれてくると、息子はいつも私を助けてくれた。

それまで、夫も娘もいてくれて力強くはあったが、私の立場を悪くはしても良くはしてくれたためしがなく、いつもフォローに回るのは私だった。
でも、私によく似た息子は、いつも私を守ってくれた。

あれこれあった。
まことに彩のある人生を送ってこられたものだと思う。

生徒たちは、

波乱万丈ですね!


と言ってくれたりする。
いや面白かったって。今までだって!
でもこれからももっと面白くするつもり。

というか、そうでない時期があったとしても、結局思い出の中で、そうなるようになっている。
しんどかった時期は、いつの間にかその後の人生にはなくてはならない時間となって、素敵だと思い出す時よりも、ずっとずっと今の自分を育ててくれているものだ。

いっときの不調なんて大したことなんてない。
きっとしあわせにつながっているに決まっているんだから!

それを実感させてくれたのは誰あろう息子である。

悩みがあるからか、息子が生まれてもなかなかおっぱいが出なかった。
乳首が小さいので、思い切りマッサージをして頑張っていた。が、出るものが出ない。
大きく生まれた息子は、毎日ぎゃんぎゃん泣いている。
男の子はこんなに違うのか?というほどに、二の腕が逞しく、産着がまくられて、二の腕が現われると、もうなんとも男である。
それなのに、どうも軟弱とは違う様子であるが、思い切り甘えて人の首筋に自分の頬っぺたと擦り付けて、泣くのである。

図々しい。


の一言であった。
それからの母への貢献の対価を先取りするかのように、娘とは違って、図々しく、

これは僕のママだ!甘えて何が悪い!

と言うかのように、所有権でも訴えるように泣いていた。

そういえば、息子があまりに私を女扱いするし、私にあれこれさせるので、説教したことがあった。夫も家にいた日曜日である。

あんた、ママはパパの女であって、あんたの女とちゃうねんで。

珍しく大阪弁で、子育ては何気に標準語であるが、よほど、躾方面のこととしてではなくて、ちゃうやろ感満載の発言だったのであろう。(笑)
そしたら、敵もさるもの、何食わぬ顔をして、

パパ、半分くれるて言うた・・・。

と言うのである。しかも部位まで決まっていた。これ以上言うと、恐ろしい話になってしまう。
私は私の身体が半分になって、所有権が分割されるのを想像してしまった。

私の腕でギャン泣きする息子。おっぱいは出ない。
看護師さんが、

赤ちゃんはお弁当と水筒持って生まれてくるから大丈夫・・・。


と言って、

この子、不安やねん。だから泣いたらおっぱい吸わせてやって。
それに添い寝してやって。

と世話してくださった。

もう彼と私は一心同体。

糖水が出始めた。栄養補給。
それでも出ない。
出なくてもとにかく吸わせる日々が続いた(と言っても平均5日の入院なのでそうそう数日でもない。)。
ある日、授乳後に計測してみると、

3g


と数字が画面に出た。


おっぱいがやっと出たのである。
嬉しかった。泣けてきた。
頭では、3グラム。小さじ一杯にもならない量だということはわかった。
でも、3グラムがこんなに嬉しいなんて。

希望の光が見えてきた。
10グラム、15グラム。
でも、一度に30cc飲んだって少ないのだから、これでは足りない。
生まれてすぐにミルクを飲ませられていた娘はこの時期、もう100ccくらい軽く飲んでいた。
条件付きの退院をさせてもらった。

それからちょっとずつちょっとずつ、おっぱいが出るようになり、そのうち、息子がむせ返るほど出るようになった。
見掛け倒しの胸だと笑われ続けた私は、面目躍如となった。

でもね、何気にこの経験って、私にいつも希望を与えてくれる。
全然光が見えないときでも、続けてさえいればいつか何とかなると思わせてくれる。そういう信念を与えてくれた経験だった。

今考えると、わずか3グラムに希望の光を見出し、嬉しくて泣いてしまったのだった。
たくさん教え子たちのいる病院で、弱さもたくさん見せながら、何とか乗り切った経験だった。

いい経験をさせてくれた息子よ、ありがとう!
あなたはいつも私に勇気を与えてくれるのよ!
きっとそれ以外の人たちは私に試練を与えてくれるのよ!ウソウソ。(笑)
ちなみに母と息子は、私と絶妙に相性のいいおとめ座である。
娘はみずがめ座。どうもみずがめ座の人は先生筋の人に多くて、学びをたくさん与えてくれる。だから娘からもたくさん学ばせてもらってきたものだ。
火の星座の人は私を困らせるのよ、きっと!
いや、ほんまやわ!(笑)




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櫻井真弓/国語大好き!(&数学)
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