ふと思い出してしまった人のこと
本当に毎日、全く脈絡のないことばかりを記事にしていると反省している。けども毎日あれこれあれこれ心も頭もあちこちにさまよっているような。
そもそもの浮気性がこんなことをさせているのかもしれない。
一途な面を褒められることが多いのに、興味関心と言えばこういうことになる。
昨日、桜の花を見ながら、不意に思い出した人がいた。
母にその人のことを話していた。
予備校勤務時代に、いきなりその人が死んだことを聞かされ、かつての同僚に電話した。
私がなぜ電話したか、お分かりになりますか?
何でしょう・・・?
最初に、その誠実だと思い、信頼していたその先生のお子さんの近況のことなどお訊ねして、
先生、いつも気にかけてくださってありがとうございます・・・。
と言われた。
それから本題に入って、彼は本当に困ったことだったろう。
周りからは、○○先生のペット、お気に入り、などと言われ(私が言ったんじゃないからね!)、私の立場ではできないことを、
あれはどうなってんの!?
と詰め寄ったりしていた。私がなぜそういうことをしているのかということをわかってくれていたので、私が辞めたがっても、
それはダメですよ。先生にはここでやりたいことがあるはずだから・・・。
とうるさいおばちゃん状態の私を引きとめもしてくれた。
ちゃんとわかってくれていた。
生徒たちを思う気持ち。
でも、私はそこの場で責任を果たす立場にはなれないのだった。
他に行くべきところを持っていたから。
今の自分で塾を主宰するというレベルの話ではなく、そのころは使命感に燃えていた。
その彼に向って、
○○先生のことです。
なんで?
と単刀直入に聞いた。
それは、正直よくわからないし、もし知っていても私が話すことではないと思うし、だから、その件は○○先生に聞いてもらったら・・・。
○○に聞いたって、答えるわけないでしょ!?
この人たちのこわーいお姉さん状態だったので、思わず声を荒げた。
だから、言われないのだろうし・・・。
おう、そうか!?そっち系ね!?あのあたりの話ね!
それから私は誰にも原因を教えてもらえず、1人予備校で仕事をしていても、いてもたってもいられず、かつて飲み会で聞いた情報を頼りにその方の実家を突き止めた。
近くまで行き、ご実家の生業を知っていたので、近くの交番に入った。
無人の交番から、つながった先は、むしろいつもいる場所からの方がはるかに近かった。
イントネーションから、またまた旅の人扱いされて閉口したが、それでも警察の人が、住所と今何をしておられるかということを突き止め、教えてくださった。
なぜか警察に相談すると、実に協力的なことが多い。
正直、これあり?案件である。
だって怪しい。
大阪弁の中年女が無人の交番から警察署に電話して、○○さんというお家について調べてください、だなんて。
何度もそのお家の前まで行った。
何となくの感じだけれど、別に不吉な感じもしなくて、むしろ明るい気があった。
何度も何度もそちらに赴いた。
関係性の面で言えば、そんな関係だとは思えなかった。
でも、私が大学受験業界に入ったなりの頃、本当に親切にしてくれたし、別に話したのなんか、たいしてないのに、いつも協力的だった。
私が娘のことで落ち込んで、泣いてしまったときも、それとなく慰めてくれた。それは周りの人も同じだった。
その年、婚家で大変なことがあり、私はよく勤めることができた、というほどしんどかった。
しんどかったけど仕事はした。
義父がなくなり、いいことと悪いことが同じくらいあった。
義父が亡くなったのは私のせいだという義母。
土下座もした。
思いきりハメられた感じがあったけど、それでもこの家を発展させようとして、私を嫁にもらってくれたお義父さんの最後の世話から遠ざけられていて、それでいて責められている構図だったけど、それでも、お義父さんのお世話を思うほどできなかったことが申し訳なかったのだった。
その後、お葬式を何とか終えたことで、ああ、ここの地で、なんとか嫁として学んできたんだった、と思えた。自分で自分に納得できた。
なぜかというと、お義父さんが、親戚から、
ああ、なんとかあの家も立派にお義父さんを送りだせた、言うてほしいんや・・・。
とおっしゃっていたから。
だから、私は、今でもお義父さんの母校の目の前で教室をやっていることを意識している。
よくお義父さんの顔を思い浮かべると、愛嬌のある顔で、大笑いしてくださるようになった。
亡くなってしばらくは、よく夢に出て来られて、
真弓、頼んだぞ。
と言って手を握られたこともあり、あるいはもっと怖くて、
真弓、罪やぞ。
と言われたこともあった。
ああ、これではハムレットの亡き父王のようである。
その意味をあまり深堀することなく、ただとりあえず、その後を私なりに一生懸命生きてきた。
私がこの地に馴染むことが一番の孝行だと思っている。
そんな大変な時期に、そーっと見守っていてくれた人のうちの一人だった。
そうそう言葉を交わすこともない。
他の先生方に差し入れしても、その先生にはなぜかお渡しする機会がなかった。
ただ、私がちょっと新調したお洋服を着て(子どもたちも大きくなって、本格的社会復帰をしようとしていた頃。)、他の先生方と楽しく談笑しているのを遠くから見て、嬉しそうにしてくれていた姿を思い出す。
それに、私がちょっと話しても、他の先生方との関係性が悪くなるような振る舞いを決してしなかった。
その先生と同じ教科の若い先生と県立図書館で会ったとき、その先生と噂をしていたのだけれど、
あの先生って、勧善懲悪なところないですか?
と訊いたら、
ふ~ん・・・?
だったら、善と悪を、好き嫌いにしてみたら?
そうしたら、
それははうまいですね!
となった。
私は好きの方に入れてもらっていたのかもしれない。
ある人が言うには、仕事をしない人は好きではなかったらしい。
私はむしろやり過ぎて問題視されるタイプだから、大丈夫だったのかもしれない。
いじめっ子のような立ち位置で、でも、まっすぐしていて、意外に思慮深い頭の良い人だったような気がする。みんなが見ている姿ではなくて、もっと繊細な純粋なところがあったのではないだろうか?
彼の死の原因を知ることはなかったし、当然に突き止める立場でもないと思う。
でも、切なくて切なくて、車を走らせていたときのことは忘れない。
そして、その後亡くした同僚も含めて、その分も、大学受験の世界で、頑張っていかなければならないと思っている。
ある同僚が言っていた。
あの時のメンバーで、大学受験やったら、相当な結果が出るだろうなあ・・・。
今でも、私の人生の中で、仲間と言えばあの時のメンバーを思い出す。
私など長く家庭を中心に生きてきた人間なのに、いきなり入って、随分大きな顔をしていたものだと思うし、その後の仕事の方向性を決めてくれたと思っている。
あの時代を経て、今の時代があるのだなあ・・・、などと時折思い出す。