突然やってくるものだから・・・。だから今、言っておこうと思う気持ち。
今日、私はある人の死を知りました。
正直、ああ、また?と思いました。
最近、なぜかその人のことを思い出していたのです。
アドラー心理学について話したこと。
私に会ってみたら、聴いていた通りの人物だったと言われたということ。
学校のこと。
一学年しか違わないので、話が合いました。
けど、全く違う理由で、少しばかり思いがすれ違っていたような気がするのです。
最後に会ったのは、再会、という形でしたが、私にとっては、本当になじみ深い、私にとって大切な?いやいつも助けてくださる方のいらっしゃる場所だったから、少しばかり混乱したのを覚えています。
そのお世話になっている方と、その方が結びつかなかったのでしょう。
私がその方とお目に掛かっている場所での自分とその方、とその場所にいる私たちが、どうしても結びつかないような場所でのことでした。
最近、妙に思い出していたのです。
その方とのことを。
ほかの人物と一緒に、その方のことを話していた、その電話での様子だとか、私に、ちょっぴり嫌なことを言われたときの感じ。
それが、急逝されて、そのご親族と話してみて、ああ、私には気を許しておられたのだ、と気付いたのです。
優しくて、ほかの方に無理を言わない、言ってみれば、周りの方が強いのかもしれませんが、ご自分が飲み込めばいい、というほどのお優しさだったようです。
私も、優しい、だの、包容力があるだの、なんでも許してくれそうだの言われがちですが、いや、こと教育になると、そして生徒や教室、時には保護者を守る段になると、それこそ社会的地位の高い人相手であろうと、何であろうと、背中をシャキッとさせて、意見を言うときの自分は、意外に妥協なく、信念があるのだな、と自分でも思わされて、びっくりすることがあります。
大学受験についての意見を求められたりしたら、相手が誰であろうと、はっきりものを言います。その瞬間、自分のことなど考えていないことすらあります。立場もわきまえず行ってしまったことが、結局は聞き入れられたり、あるいは信用につながった、ということもあります。
生徒の一人は、先生は、いつもは優しい顔してるけど、いざというとき真剣を抜いてバッサリ!というような厳しいところがある、と言います。
そう言えば、私が、学校現場を離れて、大学受験の世界に飛び込んだときに、大活躍していた人たち、まぶしいほどに、大先輩だった人たちが、突然いなくなる、という経験をしました。
それこそ、その時代を色鮮やかに意味づけてくれていた、ある時は反目したこともある人もいましたが、本当に、続いて、いなくなりました。もう長く会っていなくもあったのですが。
喪失感を認めてくれた人がいました。
あんなことがあったんやから、しばらくは、元の調子に戻るまで、時間がいるって・・・。
職場で、ほとんど泣いたことのない私が、聞いて、もう、授業ができなくなった、ということもありました。
今回も、結構来たなあ。
いい人だったから。
最後に、優しい言葉を掛けてあげればよかった。
今日、言われました。
先生と話しているとき、本当に楽しそうだった、と。
楽しそうにするなら、なんで、先に逝ってしまわれるのでしょう。
いつも、私がしあわせそうなら嬉しそうにしてくれたり、先生がおらんようになったら、俺、もっとここにいたくなくなるわ・・・、などと後輩よろしく言ってくれた人ほど、先に逝ってしまう。
しっかり者に見えていたのに。
私はいつも思います。
この年になって、まだ教え子の死に遭遇したことがない。
それはほんとうにしあわせなことです。
でも、大事な同僚や先輩や仲間をたくさん見送ってきました。
お姉さんに重荷を置いて、放って行くなよなー。
我慢せずに、そうなる前に相談してよー。
その何人かに、私はそう言いたいのです。
そんなに病気で自分を痛めつける前に、相談してくれれば良かったのに、と。
だからこそ、お世話になった人に、お礼を言いたいときには、さっさと行っておこうと思うのです。
だって、あまりにも突然、逝ってしまわれたり、ということもあるから。
それに、自分だって、明日死なないとも限らないのだから。
また、残された人たちのために、しばらく私は私のことを放っておいて、なんとか辛い時期を支えることにしようと思うのです。
そーっとだけど。
教師だから、人前では気丈でなくちゃ、支えなくちゃ、とまたまた仕事が私を支えてくれています。