この時期に敢えて言いたい「徳」について
私が初めて勤めた学校は、全人教育を目指していて、もちろん進学的にもそれなりの成果を出していたけれど、その間に勉強する人間性というものを徹底的に考える学校だった。だから、当然、受験勉強だけを何とか通り抜けただけでは尊敬されない。その人間性を伴ってこそ、認められるようなところがあった。そのルーツは仏教を基底にしている学校だったから(これは知る人ぞ知ることで、どうも真言密教らしかった。)、人徳、ということが、いつも話題になっていた。
受験って、面白いもので、意外に人が表れるところがある。
それについては、とんでもない生活指導など機能していないかに見える、いやいや、生徒の自主性にすべてを任せようとしていた自分の母校においても、不思議な受験を見てきた。
今は私は受験指導に関わっているので、受験ということで話すことが多いけれど、結局結果というものを出そうとしたら、自分との闘いというところに行きつくことになると思う。
具体的には、人のためになること、ということを根本としていた。だからと言って、その関係者がみんなそういうことばかりを考えているかというとそうではない一面はどこの社会にもあるだろう。
でも、徳、ということについては、在職していた三年間、それはそれは考えさせられた。
徳。
私は漢文も古文も教えているので、当然、徳、大和魂などという言葉としょっちゅう付き合っている。でもおかしなもので、評論の世界においても、イギリス貴族が、徳、つまりはVIRTUE、ゆえに領民や領土を納めることを許されていた、などという話題にも触れたりする。もちろん、一番わかりやすく具体的に語ってくれているのは漢文には違いない。
私は、今、国語や、その他の強科を通して、受験指導に関わっているから、ついつい受験で語ってしまうけれど、それは音楽でも何でもいいと思う。
見えない力、徳。
人徳、という言葉がある。
なんだかあの人だけ、うまくいってしまう。あの人になら、人がついていく。タイミングよくことが運ぶ。もう少し俗っぽいいい方したら、いつも得してる・・・?
私の周りの、なんだかうまくいく人たちって、自分の機嫌を取るのがうまいし、周りにとっても素敵な人である気がする。それに、そういう人って、一時、何かあっても、まあ、あの人なら、すぐに挽回するだろうな・・・、と思わせられるような何かがある。
そんな、なんで?としか思えない力を、なんだかお伝えしたくて、仕事をしているような気がしている。
私なりに・・・。
かく言う私。
人徳があるかどうかはわからないけど、おまけしてもらうのは、得意である。もしかしたら、自分を表す一番の特徴ではないかと思われるほど、私は、おまけしてもらうことが多い。小さいころから考えてみると、もしかしたら、とんでもない金額になるかもしれない。
でも、もっと不思議なのは、高校受験も大学受験も、採用試験も、なんか受かってしまってん!というようなことばかりである。まあ、高校受験だけは、まともに努力したけれど、なんのせ美術の内申点が圧倒的に足りなかった。にもかかわらず定員割れ、しかも女子だけ、で、合格してしまった。大学も、もっと優秀な子たちが落ちたのに、入ってしまった。大学受験の勉強は、したのかどうかも定かでない(これは自慢ではなく、ほぼほぼ自白。ただ、高3の4月から6月頃まではウソみたいに勉強していた。部活からの解放感に浸っていたとしか思えない。)。教員になるのがものすごく難しい時代に、なぜか、まるで引き寄せられるように、その学校の教員になってしまった。そこでの出会いが、今でも人生を豊かにしてくれたのは間違いないと思っている。
母が、「なんか、あんたには神様ついてはるみたいやなあ・・・。」と言う。
私のように、得したい?なら、○○してみたら・・・?
これも指導には使えるかもしれない。
昨日、大学受験生の女子が言っていた。高校の先生に、私のことを、「元気な明るい先生らしいね!」と言われて、「いえ、とっても厳しい先生です!」とお話したと言っていた。
彼女曰はく・・・。優しそうに見えるけど、表面的な、○○点取りなさい!勉強しなさい!というような表面的な厳しさではなく、まるで修行をしているようなのだそうである。
でも、そんなこと言ってる彼女は、わずか4か月で、外部模試の偏差値を10も上げた。二人で春に頑張ったことが、確実に実ってきている。
彼女は、私には嘘は通用しない、と言っている。
こわーい、こわーい先生なのだそうである。
そりゃあ、そうでしょ。
だって、私は高校受験や大学受験だけ合格すればいいとなんて思ってないから。
合格した後の人生が、いつまでも楽しくなるような、一回や二回コケても、また立ち上がって、堂々と自分の人生を歩んでもらえるような人生にしてもらいたくて、教室をやってるんだから・・・。