思い通りになってほしくない私
そもそも教師という仕事をしていて、どうしてそんなことを教わることになったのかわからないけれども、私は、人に自分の思い通りになってなどほしくなかった。
思い通りにしたいという気持ちを戒めてくれた、上司ではないけれど、それなりに影響力のある人がいらした。
心配するというのは、思い通りにしたいって気持ちなんだよねえ。
とか、
思い通りにしたいというときは、面白くないことになっている。前面に、全面にそういう気持ちが出てしまっていて、周囲のことに対応していく気持ちがなくなっている。
などということを教えてもらっていた。
思い通りにしたい、という言葉を聞いて、思い通りにできる状態をいいと思う人と嫌だと思う人がいるだろう。
こんなことを書いたのは、どうも、私の身近に、今、自分の思い通りにしたいと思ってるんだなー、という人がいるからである。
正直、もう少しましな人かと思ってた。(笑)
だなんて、私がこういうこと言うのも不遜だけれど、思い通りにしたいと思った人が思い通りにしたのを見たことがない。
だいたい、この世は思い通りになど行かないようにできている。
思い通りにできないことを、何とかしていくのがその人の力であると思う。
会社で上役になったから、自分が発言したら、周りが動いてくれる。
姑になったから、この家で天下を取った。
などという考えは私に痛い。
もっと言うなら、親戚が○○、夫が○○だから、子どもが○○の学校に行っているから。周りが何でも言うことを聞いてくれると思い、あるいは聞かせたいと思っている人などがいたら、それは正直かたはらいたし、である。
第一、そういう人ってたいていうまくいかない。
誰かを思うように動かして、だいたい恨みを買わないわけがないし、人生、何が起こるかなんてわからないのだから。
夫の会社でも、その昇進などによって、態度がごろっと変わってしまう奥様がおられたが、
おー、こわー!
と思って見ていた。
人を顎で使うのである。
そんな姿では、夫の足を引っ張ってしまう。
正直、あまりに気が強いので、みんな合わせていたけれど、裏で悪口を言ってていた。
あほやな・・・。
と思ったけれど、それまで自分の力で周囲から立てられたことがないので、当然、夫が、夫が、になる。
賢い妻はそんなことしない。
奥さんを見れば旦那さんの値打ちも見えてしまうというものだし、逆もしかり・・・。ああ、迷惑な話であるが。(笑)
そうか、彼女は自分の力で立ててもらうことなどなかったんだなあ。
だから、立てられることの怖さを知らなかったのか?
個人主義が発達し、家制度も徐々に解体されようとしているかのような昨今であるが、やはり子どもを見れば親がわかるというのはあるだろう。
友達がよく言っている。
彼女の地頭理論には閉口している。
なぜなら誰かがうまくいくのは、
やっぱり地頭だよー!
とのことだからである。
それもあろうが、その人の努力をいうものを、完全無視している。
努力だけで何とかなるものではないだろうが、地頭だけで物事は動かない。
私は人の力のうちの一つは、人に合わせていかに自分が生きていけるか?ということだと思う。
『源氏物語』で、源氏がわが子夕霧を大学に入れようと、母方の祖母に自身の考えを語る場面がある。
親が生きているうちはちやほやもされるだろうが、後見のいなくなったときに、その本質が現れ、情けない思いをすることもあろう・・・。
と思い、本人に学問をつけさせようとする。
要するに、人が思い通りに動いてくれなくなったときに、どうなる?ということを心配して、何とか一人前に、と考えているのである。
数寄心に惑わされ、女人との逢瀬では、アホやなあ・・・、と思わされることの多い源氏が、これほどまでに親心的には洞察が深いのか?と思ってしまう場面である。
正直、
わかってるやん!
となるのである。
藤壺が、母として強くなったのに、この源氏の甘ったれに、辟易するほどどうしようもないのかと思えば、こういう親ではあるのだな。
そもそも、ある程度の年齢になったら本人の気持ちも大事だけれど、ある程度の制約を設け、その間で本人がどういう工夫をするかということを見るのも大事なことだと思う。
若い時に、少々の制約があるのはちょっとしたしあわせだと思う。
誰かに合わせることを学ぶこと。
合わせる過程なしに、誰かに合わせられる立場になったときに、見えなくなるものがある。
先生と言われるほどの馬鹿じゃやなし・・・。
教師をしている若手の私たちの横で、まあ、多分に保身の面もあったのであろうが、そう言ってのけるその筋では血筋の良い方がいらした。
教師をしていて、立てられて、見えなくなることがあることの怖さを説いておられた。
そうそう、人に合わせられる人間でいたい。
でも、仕事柄、合わせていてはいけないこともある。
とはいえ、ご家庭の力って大きいので、まあ言ってみれば人生の十代でちょっと出会ったくらいで、別にそうそう責任もないのだろうけれど。
だから、さらっと、もう親身にならなくてもいいんじゃないかな?と思っている。労力を使っても、わからない人にはわからないから、どうぞご自由にである。
昨日、ああ、こういう人に、何を真剣に語っていたのだろうか?と思った。
こちらの思いなど別に言わず、立てるだけ立てておいておこう。(笑)
いよいよ達観か?
いやいや、通じる人とは話します。
ただ、己の力を過信するのはやめて、ちょっと気を抜くことにしようというだけの話である。
そういえば、子どもたちにも思ったものだ。
親の思い通りになるような人間になってほしくないと。
舅が、
お父さんに任せたら、親の思い通りになる子が育つ・・・。
と夫のことを言っていたのを思い出したが、正直、元教員としては、背筋がゾッとした。
親の思い通りになるの?それがいいの?
別に面と向かってそういうことを言ったわけではないし、夫もそれなりに自分の人生というものを語っていたから、そのことを踏襲したわけではなかったが、それでも、自分の思い通りにしたいという思いが怖かった。
だいたい自分に心から自信のある人は、誰かを思い通りにはしない。
いかに自分が周りのために役立つことができるかということを考える。
最近、かなん人が多い、と書いたけれど、逆に、
世の中、こんな人がいてはったん!?
という人との出会いも続いている。
昨日、あることを相談した人が、
そうやねえ、どうしたらいいかなあ・・・?
と何度も考えてくださって、そんな風に解決するの!?と、母の心配事が、スムーズに解決の方向に進んだ。
ちょっとうまく行き過ぎだった。
要するにそういう人は、自分の職業人としてのプロ意識を全面的に発動して、どうすれば目の前にいる人の役に立つのか?ということに全力を注いでおられるのである。
正直、ほかの人なら、
システム的に○○になってるので、~して、また違う日に来てもらって・・・。
となりそうである。
先日の銅器のお店でもそうだった。
お店に行った私の思いをしっかり聞いてくださり、どうすればそれが成就するかということを考えてくださり、楽しいお話付きで、こんな金額でいいの?という仕事を立派にしてくださった。
いやいやこんな断定した評価をするのも偉そうだけど。
そうそう、そこなんだよなあ。
ご依頼の内容と、なさっている行動が一致しなくて困る。
最大のサービスを提供するためにあれこれやっているのだけれど、いつも反対方向に行かれる。
誰かに依頼するときには、依頼する側も言葉を尽くして、今の状態を語る。相手を立てつつ。
そして理解し、思いを受け止めた側がその実現に向けて動いてくれる。
その過程を端折っては何事も成就しない。
そもそも、お子さんの成績を伸ばし、もっと端的に言ってみれば、どこかの学校に入れたいわけである。
そう思い、それを依頼するのであれば、依頼者側のそれなりの言動が必要になってくる。
失礼な態度をとれば、相手もそれなりの対応しかしてくれなくなるだろう。
それでも何とか自分の職務を遂行したくなるのが私であって、周りに呆れられているが・・・。(笑)
とはいえ、やはり依頼者側の態度もあるよなあ・・・。
そうか!?
これも勉強か・・・?
自分がどれほど大きくなれるか?成長できるか?
さてさてその方向性はいかに!?