不思議な受験ともったいないこと
今年も高校受験、大学受験のすべての結果が出て、ご挨拶をしに来てくださったり、あるいは卒業生からの連絡もあるのだけれど、とてもすべてに対応するわけにもいかず、今日は何とか二階の窓に合格実績を貼りだそうと思っている。
都会育ちで、今地方にいるとは言うものの、こんなこと言うと、怪訝な顔をされるだろうことは容易に想像がつく。
でも自分の経験や周りのことを見ていたり、あるいは自分の受験指導を見ていても、感覚として話せることなので書いておきたい。言語化するには相当考えなければならないけれど、一部言語化できる面もあるだろう。
私こそまともな受験がなかったような気がする。
先生方に協力していただいて、なんとか通り抜けてきた受験だったから、決して要領がよかったわけでもないのに、その当時としては結構大変だった受験を「なぜか」突破してきたような気がしてならない。
それが証拠に、高校も大学も、そして就職も、しばらくはその名を言うのをためらわれたくらいに、
私はたまたま入れてもらったから・・・。
という思いが強かった。
就職先など、「○○学園高等学校全日制国語科教諭」という肩書など、一年くらいたっても言えなかった。たまたま教諭になったとしか言えない時代に、たまたま周りの方々のおかげでならせていただいたとでも思っていたのだろう。
そのあるべき姿を追求して、どこにあるのかわからない教師像を求めて、ひたすら走っていたものだった。
また、周りには、これは辞めてからわかったのだけれど、素晴らしい先生方が多かった。
なんとか社会に出ても役立つことのできる人間を育てようと一生懸命だった。
勉強だけができても評価されない。
いつも器ということが話題になっていた。
勉強ができても、
アイツは徳がないからね・・・。
とか、勉強ができなくても、
アイツは器が大きいからなあ・・・。
などという言葉が飛び交っていた。
器など小さすぎると思っていた自分は必死で何とか器を大きくしようと努力していた。
私は、良く周りの人から、
○○ちゃんは人の嫌なこと言わないから・・・。
と言われていた。
それは気を付けていた。
もちろん嫌なことを言われて、言い返したいことも山ほどある。
もちろん言い返すこともたくさんあった。
若かったから。
でも、言い返すことによって、同じ土俵に立つことも嫌だった。
ある時気付いた。
というより教わったのかな?
嫌なことを言って、相手が返してくれた方がまだいい。そしたらその返してもらって嫌な思いをした分だけ自分は不徳を積まない。でも、要するに、相手は不徳を積むままだということに。
仕事をしていて、言いなりになっていれば自分の仕事が膨大になるので、それは良くない。ときに言い返さなければ手元の、自分のするべき仕事が全うできなくなるので、そこはなんでもハイハイと言っていればいいというものではない。
最近も、言い返いしてやりたい、言ってやろうか・・・?と思われることがたくさんあった。
何より痛い話。
都会から地方に来たので、そもそも学校に対するレベルについての認識が違う。都会のレベルの輪切りはもっと薄く、進学校の定義も違う。
一生懸命に指導して、どこかに入られる。
親御さんが自慢げに話されるのを聞くとき、正直、共感ではなく、
痛い。
と思ってしまう。かたはらいたし、となる。
それを昨日友達に話したら、
それは仕方ないよ。スルーするしか。
と言われた。
自慢げにほかのお母さま方に話しているその姿を想像するだけで、もうみっともなくて辛くなる。
だいたい子育ては、どこか「いい学校」に入っただけで何とかなったと思っている時点で怖い。
就職して、なんとか社会の使い物になることができるか?みんなとなんとかやっていけるか?やっていけなければ自分でできる仕事に就けるか?
そんな時点で安心している場合ではないのである。
人生は長い。
いろんなことがある。
突然病気になるかもしれないし、事故に遭うかもしれない。
それよりももっと悲しい出来事に遭遇するかもしれない。
学校が何をしてくれる?
学校は自分の身を守ってくれるかもしれない。
ある一面ではそうだ。
でも生かさなくては、別に周りに人に影響しない。
ある生徒が、周りのことを考えないで、受験勉強をしていた。
結構うちの塾では珍しいタイプである。
親御さんに話しても、
勉強のことは何も言わないようにしています。
とのこと。
共通テストでコケて、その時にちょっとそれとなく注意したけれど、何にも変わらない。
これは勉強自体は必死でやっているけれど、たぶん合格はないなと思っていた。
受験生がある程度荒れるのは仕方がない。
でも周りに影響が出るほどのことをしていいことがあるわけがない。
あのとき、私の言っていることを理解してくれる力があったらよかったのにな、とつい思ってしまう。
それもこれもすべてがそれでつじつまが合っているということなのだろう。
勉強するのは当たり前。
合格したいのだから。
でも、合格できる自分になるには勉強だけではダメなところがある。
公明正大で、できることとできないことをしっかり見極めて、そこをしっかり埋める勇気。しんどいけれど、自分の弱さと向き合う勇気が大事である。
それはしんどい作業である。
そして、自分という人間の弱さともちゃんと向き合わなければならない。
ちょっと周りに何か言われたら、言い返したくなるようではいけない。
とここまで書いてきて、もし言い返さないところがあるとすればもしかしたら冷たいのかもしれない。
相手に勝手に不徳を積めば?と考えているとしたら?
私は思う。
自分が徳を積んでおけば子どもたちに返っていく。
でも不徳も同様。
ならば相手に嫌なことを言われたら、相手が勝手に不徳を積むだけであり、もしかしたらこちらは徳を積むわけである。
言い返すのは勿体ないかもしれない。
だいたい誰かから嫌なことを言われたくらいで、心を揺らしているようでは受験する資格がない。
ちゃんと強くならないと。
とはいえ、相手がとんでもなくおかしな人だったら耐えていてはいけないと思う。
ときに生徒にも、
この子、もしかしたら、感情がないのかしらん?
と思う子もいる。
根拠をもって退塾してもらうこともある。
それでもどこか心の底で、それでは解決にならないなと思った場合は残ってもらって、私にできることをすることもある。
通じない。
私が言っていることの十分の一も通じない。
あるいは、卒業生から会いたいと連絡が来る。
ときに関係性から考えて、
なぜ?
と思わされることもある。
まだまだ人間を知る勉強は続きそうである。