怒ったり嫌ったりする権利がほしい
私にはまあ、恩人ということになる人がいます。
でも、その人は一方で、私を相当苦しめてきた人です。
おそらくは万年モラハラ。
長年、その人を嫌ってはいけない、恨んではいけないという呪縛に苦しめられてきました。
だから、誰かに対する嫌悪感とか、それ以外の良くない感情を認めてもらえず、みんなと仲良くするしかなかったのです。
でも強要する人は、とんでもなく好き嫌いの激しい人です。
それはもう、人間の弱さを認めない有様です。
私が怒ったり恨んだり嫌ったりしたい相手は、それ相応のことをしてきたし、言いもしてきたので、仮に恩があったとしても、言ってみれば相殺できそうなくらいなものです。
それに結果的に、その人がいい人だったのならばそういう結果にはならないという結末になっています。
それを、
恩があるから感謝するのは当たり前。
と言い続けて、私が怒ったり恨んだりするのは筋違いだと言われ続けてきたのです。
お前が悪い。
と言われれば、理不尽な状況で、あれこれ考えることになります。
それって、言ってみれば自分の感情を無視させられているということになります。その分、思慮深くもなったけど、人に対する直感は鈍っていたと思います。
嫌なら嫌でいいではないか?
仮に、自分が希望することをさせてやるから、その代わり、毎日、とんでもなく理不尽な目に合わせてやりますが、それでもいいですか?
と言われたら、そしてめでたくその結果を得たとして、人って、その理不尽なことをした相手のことを感謝できるのだろうか?
それを、ひどかったかもしれないけれど、でも、世話にはなったのだから、だからその人のことを悪く言うなというのは横暴だと思います。
誤解のないように書いておきますが、よくある性犯罪的なことではありません。それはこの世で一番理不尽だと思うので、私など精神的なことなだけだから、考え方ひとつでなんとでもなるとでも言われそうですが。
でも、世の中の風潮として、よくあると思うのです。
先日も高三生の共通テスト国語の指導の中で、評論文を読んでいて、「からかいの心理」について考えていました。
若い生徒には(たまたま女子だけのクラス)、まだまだわからないウーマン・リブ運動やセクシャル・ハラスメントの話が出ていましたが、ピンとこない様子です。でも長ずるに連れて、わかってくる構造もあります。
誰かが女性職員をからかう。
ときにはスキンシップと言って、身体のどこかを触る。
ちょっと嫌な気分になる。
でも、大事にするよりもジョークで受け流した方が仕事もスムーズにいくだろうし、そこであれこれ言ったら空気が悪くなる。
だから笑ってごまかす。
そういうのってあります。
どう考えても自分に対して過剰な親切をされる。
しかも親切にするのが仕事の場合、その程度を計るのが非常に難しい。
だから不快でも、言わないでおく。
あるいは、もしかしたら気丈な人ならその状況を利用して、より親切にしてもらえるようにと動けるかもしれません。
なかなか仕事を仕事としてだけで、成り立つわけではない面もあります。
組織はそういうものです。
全く違う切り口の話ですが、私の人生は、嫌な人のおかげで次のステップに移ったというか、そうできたというか、頑張ったというのもあるのですが、なぜか、私がステップアップするために動いてくださる結果となったということが多いのです。
それは不思議です。
嫌な人に会っていなかったら、正直、今の私はいません。と書くのはちょっとためらわれます。(笑)
今の私というほどの私がいるのか疑問ですが・・・。
とにかく苦手だったある人のせいで、新卒で働くことになった学園の採用試験のことを知ったということもありますし、その窓口になった人が、その後苦手な上司だったということもあります。その学校の先生が足りなくて、母校に電話したとき、お世話になった就職課に、学生時代は結構偉そうに言われっぱなしだったのに、
先生、卒業生はもういろんな学校に出払っておりまして・・・。
と、先生扱いされるのがおかしくておかしくて、というのもありました。
人生の面白さとも言えます。
それに、自分に嫌なことをしていた人って言うのは、結局、まあ言ってみれば顔をつぶされる結果になっているというか。その対象は私とは限りませんが、とりあえず弱いところがあるということだろうと思っています。嫌就職課は別ですが。(笑)
というか、弱いから誰かをいじめたり、嫌なことをするのかもしれません。
それに、そういう人って、外見上は、
良くやってあげて・・・。
と周りからはとんでもなく評価の高いあり方になっていて、
○○さんのような立派な人はいない。
と世間では行いすました聖人になっていたりします。
でも、世知にたけた人ならば、そういう実情に気付いていたりします。
いじめや心理的な圧迫など、それを認めてもらえれば、相手がそういう人だと分かれば、なんとなく生きていけるということもあります。
逆に認めてしまうと辛すぎて、それを見ないでいる方が、何とかやっていけるということもあるでしょう。
最近、長年お世話になった方の本来の姿に触れることがありました。
失恋ではないけれど、失恋以上に辛いものです。
失恋ならば、その相手の人が素敵なだけで、それ以上その人の像が変わることはないと思います。
でも、その人の本当の姿は、思っていたのと全然違ったのです。
もちろんその人が私の前でいい格好してたということもあるでしょう。
でも、理想に当てはめて、私がその人をそういう人だと思い込もうとしていたのだと思っています。
何よりも、その人の本当の姿を知っていたいのです。
在りと在りとして、それ以上でもそれ以下でもなく、その人をそのまんま見た挙句お付き合いしたい。
自分の理想像を無理やり押し付けて、その像と違っていたからショックを受ける、ではなく、そもそもその人を好きになったり嫌いになったりするところには、解釈とかではなくて、
嫌な奴だけど、なんか魅力的で・・・。
ということもあれば、逆に、
いい人なんだけど好きになれない。
というのもあると思うのです。
今、私は実は人生で初めてに近く、ある人にちょっとばかり意地悪をしています。そして、その意地悪をしている自分が嫌いではありません。
あんたなんか何よ!
勝手に私のことを好きになってほしくないわ!
だから罰よ!
というみたいに。(笑)
それが人間というものでしょう。
私はどうも男性を好きになることがなかなかできません。
いえ、異性としての男性ということではありません。
好感もたせていただけるなら、
私よりも男らしくしてよ!
と思っていて、この男らしくという表現もどうかと思いますが、卑怯だったりズルかったり(でも男のズルさ、とか女のズルさなどとも言いますよね?)した姿を見たら、嫌になるのです。
だったらあんたなんかいいわ・・・。
と切り捨ててしまいそうです。
別に倫理的におかしなことでも、やっていけないことをしているわけでもない。
でも、ちょっとばかり痛いやろうなあ・・・。
ということをやっているのは認めます。(笑)
意地悪ができるようになったなんて、結構進歩です。
これから私は、私に嫌なことをした人たちを憎むことも恨むことも嫌うこともしてみようと思います。
ずっと理解することで乗り切ろうとしてきましたが、その理解の前に、思いっきり嫌ったろうと思っています。
相手だって、意地悪してるのに、良い解釈ばかりされたら、たまったもんじゃないだろうし。