人の人生の非常事態にどう対するか?
かつて一緒に集合住宅で暮らしていた奥さんで、あまり好きになれない人がいました。でも、彼女より、彼女のバックにいる大御所がちょっと癖のある人で、彼女自身の方が、むしろ思ったことを率直に表現するタイプだったのを、たぶん私が誤解していたのだと思います。
あるとき、そのお家の、うちの娘と同じ年のお子さんが、入院されました。そこで、私は、玄関を覗いて、「私よりいろいろお世話してくださる方がたくさんいらっしゃるだろうけれど、もし私でできることがあったら言ってね!」と声を掛けました。いつもはどうであれ、その人が大変な時は、それまでの人間関係など関係なく協力したいし、その心情にも寄り添うものだと思います。その後、その方が、ほかの人に、私が、にっこり笑って、そう言ってくれた、と話されていたと聞きました。
人間って、こういうときは、休戦する、というときがあると思います。と言って、しょっちゅう誰かと対立したり、喧嘩したりなどしませんが。いつもはライバルであっても、ちょっと腹の立つ相手であっても、ちょっと可愛めのかかる人であったり、慕っている人ならなおさら、こういうときだけは、優しくしてあげべきとき、ちょっとは大目に見てあげるとき、という時期があると思います。今しんどい人に、あまり嬉しいことがあっても、ちょっと報告するのは後にしようとか・・・。
そこにこそ人間性というのは現れる、と思うのですが、つらいときに、傷口に塩を塗るようなことだけはしたくないし、できれば、今はしんどいだろう、とそれとなく見守ってあげたい、と思います。
昨年、父を亡くす直前に、ちょっとしたご注意を受けました。甘いかもしれないけれど、仕事に関することでもないのだし、そのときだけは大目に見てほしい、と思いました。それどころではないことってあるから。
子供に何かあったとき、親に何かあったとき、人間関係の何らかでしんどいとき、そっと察して、そっとしておいてあげても、一瞬、その人を甘えさせてあげてもいいと思います。
そうね、今だったら、生徒だったり、お若い先生方が、失恋でもしたら、私はちょっと大目に見てあげたいかもしれないし、失恋した子の前で、幸せな話をする生徒がいたら、それほどの思いやりもないのか、と注意するかもしれません。
実家のある大阪で、若いころ、人情の街だからか、ご近所にご不幸があったとき、「こういうときは、普通の時ではないから、いつもどうであっても、協力しなければ・・・。」と発言されたという方がいらして、私は、その方を見直したし、そのことから学ばせてもいただきました。
先生も、親せきに、何があろうと、それはみんなでお送りしなければならない、何か話があったら、あとにしましょう、と言ったらいい、と言って、かつて私を、喪主の嫁をする私の背中を押して、しっかり自分の責務を果たさせてくださいました。
ピアノの先生が、気持ちを分かってくださいました。ついでに、最初はみんな同情してくれるけど、いつまでも落ち込んでいたら、みんな辟易するから、そこは頑張って、一生懸命仕事していたら、あの人、辛いのに、頑張っているんだなあ、と認めてくれるから、とも言ってくださって、私はとても学ばせていただきました。
非常時だけは、少し人に甘えてもいいし、周りも、その時だけは、優しくしてもいいと思います。でも、最近、そんな「大変だっただろうなあ。」という人間としてのささやかな思いやりや、共感すら、ちょっとどこかに行っているような気がするのです。
せめて、私は、教室の中でだけは、そういう思いやりをもてるようにしたい、と思っています。
でも、人間関係、ってわからないものだから、それぞれに思いやりの表現の仕方ってあるから、どれがどう、っていうものでもないとも思っています。意外に厳しい言葉や、普段と何ら変わりのない表現に癒されるものなのかもしれないし・・・。