自分の経験を自分だけのものにしないために
私はもともと、そう小さい時から、自分の経験からの感情と向き合い、そしてその原因となったことを突き詰める癖があった。
兄との父の接し方の違いになぜ?と思い、そこからモヤモヤするものと闘いもし、父に投げ掛けもした。
男性の矛盾にも敏感だった。
一方で、女性の生きるために、ちょっとだけ弱い側としてのズルさもまた嫌いだった。
そのことに気付かされたのは、小学校5、6年生の時の担任の先生の在り方からである。
男だからって偉そうにするな!
と何度思ってきたことだろうか?
それは仕事をしてからは、
ちゃんと仕事してよ!
に変わった。
だから兄より勉強は頑張ったし(これはもともと私のほうが勉強が好きだったから、簡単に兄よりできるようになった。というよりもともとだった。)、女性だからと何かを言ってはならないという風潮は嫌いだった。
でも、担任の先生の暴力性から、私はとにかく目立たず、先生の目から止まらないことだけを気にした。
これではとんでもない逃げであるが、これは生活本能と言うべきかもしれない。
戦時下で正しいことを言ったらやられるのと同じ。
当時の私が抱えていたものを、全部先生にぶちまけたら、きっと彼は大暴れして、私などぼこぼこになっていたことだろう。
この人とうまくやれなかったということが後々私の人生に影響した。
嫌われる経験があまりなかったのと、変な完璧主義があったためである。
とはいえ、高校時代一緒だった女子が集まって話していた時には、同じような経験があった。
小学校六年生の担任の先生から、わかっているのに手を挙げないと言われたこと。
小学校の時、何らかの形でいじめられたこと。
先生方との葛藤。
そして、
みんなピアノのレッスンから逃げたこと。(笑)
全部身に覚えのあることばかりだった。
ことさら書き立てることでもないだろうけれど、それでも、小学校の先生とうまくいかないきらいがあったとしても、あんな暴力性の高い先生がそうそう高くいらしゃるとは思えない。
それに、中学校の先生には、女子生徒を私たちの知らないところで、女の子として見ていたのだなということも後で知った。
それは自分にもちょっとだけ及んでいて(いや受験前だったから、その後教職に就いた自分にとって今なら許しがたいこととして思い出される。)、教育実習に行ったとき、短大に進んでいて、二つ下の後輩から聞いたことからは、なんと先生と付き合っていたという話まで出て(つまりは男女の仲)、びっくりしてしまった。
私は、夫を責めたことがある。
あまり関心のない世界だったけれど、それに知らない世界だったけれど、よその奥さんから聞いて、昇進の話はそういう風に使うのか?と思った話として、
パパ、なかなか○○になれないねえ・・・。
って言ったら傷ついていた、と聞いたので、あまりに婚家とうまくいかないと言って責めるので、私も言ったことはあった。
なんで私に、うまくやれって言い続けるなら、自分は○○になれないの?
人の要求するなら、理不尽なことを人に言うばかりではなくて、自分も言われてしかるべきでしょ?
となった。
この手の話、誰か第三者に話せば、絶対に奥さんが悪くなる。
私も、その件において、最も親しいだろうと思われた人に話してみたら、案の定、
旦那さん、立ててる?
と聞かれて、
やっぱりねえ・・・。
と絶望した。
それより先に、夫に、
奥さん大事にしてる?
と聞く方が大事である。
夫の先輩が、夫に気付かせようと二度ほど諫めてくれたことがあったし、つわりについて理解のない夫に、ちょっとはわかれよ、とばかりに注意してくださった同期の方もいらっしゃった。
そういえばいるいる。たくさんいる。(笑)
私はその手の理不尽系の話をするつもりはない。
ただ、人にあまりに要求するので、言ってみただけである。
男性の中では、と信じていた、その話した相手は、今思えば職業柄、リベラルなフェミニストの顔をしているが、いや、フェミニストは違うかな?よくある男尊女卑の権化であろうことは容易にわかる。(笑)」
話がかみ合わないのは当然である。
この人に土地のことを言ったら、発狂される。
二度ほど経験した。(笑)
今、働いてきた女性が、後輩たちが自分たちが苦悩したことをサラリとやっていけることにモヤモヤすることがあるという話を読んだ。
かつて現場で働いていた時に、自分も含め、後から来た人間は、同じ厳しさで同じように頑張らないといけないんだ、と思っているということに愕然としたことがあった。
何とか後輩たちに自分たちのした思いをさせまいと頑張って、何が悪いのだろうか?自分たちの頑張りによって、誰かが生きやすくなることの何がモヤモヤするのかわからない。
ただむやみに意見を言われたり、もしかしたらそのありがたみがわからない場合はモヤモヤするのかもしれない。
私の場合、言われやすい。後輩などに。
誰にでもだけれど。
これは中身とが意見の不一致から来るものだと思われるし、ある日突然、思っていることを言ってみて、びっくりされることもある。
私は容貌が丸く穏やかで包容力があるように思われるらしい。
考えていることをちょっとでも正直に言ったとしたら、結構傷つく方も多くいらっしゃることだろう。
誰だって波風立てさせたくはないものだと思う。
連鎖って怖い。
私の心の中にもあった。
ときは娘の中学校の入学式。
忘れもしない、式が終わって、入学式の看板の前で撮影したくて、順番に並んでいた。
どうも関西から来られたお母様がいらした。
同郷だろう。兵庫、大阪、京都と、それぞれにちょっとずつ言葉が違う。
その時に、おそらくは大阪人の気の良さで、後から入ってこられた人に、
そこと違うと思う。ここやと思う。
と、地元にいたら本当に普通な感じでおっしゃった。
県の中でも、まだ入学式に着物の多い、ちょっと郡部に属するところである。
住みやすくはあるし、みんなフレンドリーなのだけれど、この表現だと誰も相手にしてくれないな、と違和感を持った。
いわゆる仲間外れにしたくなるような感覚。入れたれへんで、というような感覚。
わかってないな・・・。
そのときに、ちょっと姑根性みたいなものが自分の中にあることに気付いた。
よく言われるように、
今でこそ、こんな明るい顔して生活しとるけど、最初の頃は大変やったと思うよ・・・。
と言われるくらいには、頑張ってきた。
文化も違う。コミュニケーションの仕方も違う。
長年住んできたからこその、自分を出せるようになるタイミングなどもある。
その中で、そこで生活していくときに必要なことも体得してきた。
それを何にもわからずに、ちょっと嬉しがって(誰かに話し掛けられてでもおられたのだろうか?)、ホッとして、何言ってるの!?みたいな?
その時の自分の中に発動したかすかな意地悪って、ああ、誰にでもあるんだなと思った。
その後、そういうところも乗り越えてしまい、でも、あの時の衝撃は今でも忘れない。気を付けないといけない意識だった。
その後、ある高校に常勤で勤めた時に、同じ教科の先生が、きつく当たられた。
フォローしてくださった先生の、
あの人も、自分のお産のときに苦労しているから・・・。
と言われて、いったい何を言われているのかわからなかった。
その人は、他県出身だった。
その時その構造を理解した。
他県から来て苦労してきたから、誰か違う人が来ても、苦労して当たり前なのに、なんでそこをわかろうとしないの?という気持ちになるらしい。
でも、いろんな要素があり、どこでどんな仕事をしてきたか?どういう勉強をしてきたか?などいろいろある。
結婚して初めて教職に就かれたその人と、新卒で教諭として働いてきた私とでは採用のされ方も、その当時の何を期待されているかということも違うのである。
仕事をするときには、私は徹底的に、その組織の効率を考えてきた。個人的な感情を出して、協力しないだとか、生徒のためにならないことをするだなんて、それは教師失格だと思ってきた。
目の前の大事なことをしっかりする。
嫁としても、その家にとっていいことは、感情論よりも先に来てしかるべきだと思う。古い考え方かもしれないけれど、お家大事ではなかろうか?
矛盾しているかに思えるが、身重の嫁にプレッシャーになるようなことばかりをして、お腹の子に影響のあるようなことをするのは、私からすれば非効率的である。その家にとって、立派な?(この表現もどうかと思うけど?)子が生まれることを目指す方が当然理にかなっている。
もちろん嫁側からも、周りの誰かの言葉にいちいち反応しているから悪い?という説もあろうが、多勢に無勢。頭がいいから、学があるから、そういう感情論は回避できるというようなものでもないだろう。
感情と知性は、ある程度考え方を変えることで感情をコントロールできるかに見えるが、絶対に感情の方が勝ってしまう。
感情でやられて、それを回避できる手段は少ない。
自分がやらないタイプであっても、されて回避できる人にお目に掛かってみたい。
たいてい潰れるか、よほど強いタイプであれば、何とか乗り切るかであろう。
こういう話を書いていること自体が情けない。
人が人を潰すだとか、誰かを痛めつけるだとか。
やっぱり必要なのは、小さい時からの精神性の涵養である。
自分自身の機嫌をいかに自分で取ることができるようになっておくかということが大変に重要なのだと思う。