なぜ君ははぎれを使うのか
ここ最近ずっと貼り絵を作っています。モチーフは動物や食べもの、風景等。。人間はなんだか作る気にならなくて作っていない。とある時期はポートレートばっかり必死で描いていた時期もあったのになんでなんだろう。
作り始めたきっかけは銅版画で試刷りした紙や切れ端がいっぱい残っていたから。私は普段は断捨離魔なので(笑)必要ないなと思ったらちょっとためらいつつも容赦なくゴミ収集orリサイクルへ廻してしまいます。
ただ、この版画で使用した紙は何故だか捨てられなかった。ハ―ネミューレというそう安くはない紙、というのも勿論あるけれど、試刷りに使用した紙というのは失敗や実験の思い出が詰まってるし、その思い出を分け合う時間が工房の中には確実に流れていたのでそれを使わないからといって手放すのは何だか寂しかったし何かに変換したいなと思っていたからです。
切れ端とかはぎれとか、形ある物を作るとどうしてもでてしまうもの。現実的に用途はないもの、そのようなものの存在を新たに形あるものにしたかった。でも、また形をつくるからといってそこから新たなはぎれは極力出さないようにしたい。紙も細かく切り刻んで素材の質感を出すためにも貼りこんでいけば全てのはぎれが回収され得ます。
素材を買い足す時は勿論これからあると思うけど、極力今自分が持っているもの、触れられるものに焦点を当てて制作していくスタンスをしばらくは取っていこうかなと考えています。アイデア次第で変更する事もあるかもしれないけれど今はそんな気分です。
また、これはずっと思っていた事なんですが、この世の中には人知れず頑張っている人、頑張っているのに評価をされない人、大きな組織という”形or型”からあぶれてしまって、独自のスタイルを保ちつつもインディペンデントな人。そんな依存しない、自分の道を歩んでいる人を観る度に静かに心の中でエールを送っています。
なんか、いつもそんな事を考えているからなのか、このはぎれを使って制作したいと思ったのは。私という媒体を通して、この素材達を型にはめ込むのではなく適切な場所、輝け得る場所ににリロケートしたい。(ずいぶん偉そうですが。。そんな感じです。)
今回の話の流れで言うと、これから、勿論私も含め、個人がもっと自由に自分と言う一人の人間としてこの社会で生きてければ良いと思う。型にはめられることなく、はまることもなく、自分である事を思い切り肯定できる社会。
そうそう、昨日この映画を遂に観ました。タイミングだったなあ。
こんなひとがいたんだと驚きつつ、とても純粋に応援したい気持ちになりました。3~4回位涙腺崩壊した夜。