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ちょっと疲れた夜の日に
ちょっと疲れたな この状況に疲れたという感情言葉を当てはめた最初の日はいつだったのだろうと考えてしまうほど疲れたという言葉の先をぼやぼやと考えてしまう。
悩むとまではいかない、自分は居心地のよい居場所の模様替えというかお片付けをうまくいかないのか、そっと最近の流れが変わっているような感じがする。
最近はどうやら気を使われていたということに気がついた。そんなに私は怖い存在だったのだろうか。みんな自由にすればいいのと思って自分が自由に行動していたが、どうやら癪に障っていたらしい。自由といっても他者への無断介入しているわけではない。個人で小さく自由に過ごしていただけなんだけどね。
同性間では許可制という同調確認が事細かに必要みたいだ。
「〇〇していい?」とよく聞く人いた。これは人の物を借りたりする許可ではない。例えると「先生、トイレいってもいいですか?」といってる具合だ。時間中にトイレに行こうがそこは自由とされている。 そこをわざわざ聞いてくるのである。別にカフェで2人でいて「ちょっと、トイレ行くね」の断りとは少し違う。
自分の考えでは自分の行動が他人に何かしらの影響があるなら断りや確認を入れる。それはとても重要であると認識している。けれど、私は、同性特有の相互心情確認が理解できていないということを知った。
これには個人レベルの尺度があるのだろう。なのでこれだというのはないが自分はもう少しこの定規を伸ばす必要があるみたいだ。相手を不快にならない程度を図りながら聞くみたいだ。けど、同調確認の尺度が長い人でも、あれは無断使用してるくない?なんて矛盾を感じてしまうこともある。けど、イラつくな一貫性の持てる人間は少ないのだから。とそっと心につぶやく。
人間関係のめんどくささを感じるとは人間と関わっていることだ。自分を褒めながら今日はおやすみなさい。