コミュ障のコミュ障によるコミュ障のための哲学

今年最初の読書として古田徹也さんのこの本を読んだ。

とっても面白かったし哲学の本だけれどそれほど難解な用語とか必要としないのでこのnote見た方も是非手に取ってほしいと思う。

さて、この本の冒頭に著者の娘さんのエピソードが出てくる。
本当に冒頭も冒頭でちょっと長くなるが引用してみたい。

幼稚園に通う娘の弁当を作り始めて一年ほど経った日のことだ。その頃、焼き海苔を敷いて巻く卵焼きに凝っていた私は、いつものようにそれを作って、弁当に入れた。
三歳半になる娘は、夕方、いつものように弁当箱を空にして帰ってきた。私は何気なく、「今日の卵焼きはどうだった?」と尋ねた。娘は反射的に「あれ嫌い……」と口走った後、明らかに、しまった・・・・という顔をした。顔がみるみる赤くなり、もじもじし始めた。そして、消え入りそうな小さな声で「嚙みきれなくて……でも」などと言い、何とか誤魔化そうとしだした。
そのとき私は、娘の好みでもないものを得意になって作り続けていたことを恥じ、申し訳なく思ったが、それ以上に、娘が本音を隠そうとしたこと・・・・・・・・・・・に驚いた。…(中略)
…この卵焼きをめぐるやりとりを契機に、娘がいつの頃からか、自分の本当の気持ちを内面に押しとどめ、嘘をつけるようになっていたことを知った。彼女がにわかに不透明・・・な存在になったように感じた。
この変化は、わが子が成長したことの証しであり、親として喜ぶべきことだ。とはいえ、多少なりとも複雑な感慨を覚えたことは否めない。この子の純粋で無垢な時期はもう過ぎ去ってしまったという思いだ。

古田徹也『このゲームにはゴールがない』p.13~14

僕はこの箇所を読んで立ち止まってしまった。本当に始まったばかりだというのに。
そして一度通読した今でもまだ、ここで刺さったトゲは抜けていない気もしている。

僕には二人の子どもがいる。二人とも男の子で、もう数年前ではあるが幼稚園に通っていて、僕は週に三回チビたちの弁当を作っていた。弁当のおかずに文句を言われたことも一度ならずある。だからここに出てくる著者の気持ちはわかる気がする。
しかし、僕にはチビたちが「不透明になった」という感じはなかった。
僕にとって、チビたちは生まれてからず~っと「不透明」であったし、今でも「不透明」であり続けているのだ。

この本ではカヴェルとウィトゲンシュタインという二人の哲学者の議論が紹介されている。カヴェルについては名前だけ知ってるだけみたいな感じだったのでこの本で教えられてすごく興味を引かれたのでこれから読んでみたい。
一方のウィトゲンシュタインに関しては結構本も読んだ気がする(勿論専門の方の足元にも及ばないが)。
そして僕がウィトゲンシュタインを通じて考えたことは、彼は「コミュ障のコミュ障によるコミュ障のための哲学」として読めるんじゃないかということだ。ちょっと本の内容からは離れていくが、それを書いてみたい。

ウィトゲンシュタインの言語ゲームのためには、共有できる生活形式があるのだという。それを疑う懐疑論についてはこの本の一つのテーマだが、僕は懐疑論者という訳ではない(と自負している)ので、それに反対する訳ではない。ただ疑問に思うのは、その生活形式がどこにあるのか、ということだ。
うちのチビたちは、我が家でのゲームを元に他の諸々のゲームに参画しているだろう。そしてそれは様々に変容して僕にもフィードバックされる。
まるで一つのボールをめぐってオフザボールで様々に駆け引きが行われポゼッションが変わった瞬間にボールの役割すら変わってしまうサッカーのフィールドのように、ゲームは変化しいろいろな顔を見せるのではないだろうか。

コミュニケーションの透明さは、阿吽の呼吸でゴール前に通されるキラーパス、巧みな連携で敵陣を崩すパスワークみたいなもので、たまたま上手くいったような場合も多いのではないだろうか。そもそも突然ボールを持たされてフィールドに投げ出された技術もないヘタクソ=コミュ障にはそんな透明さを見通すことなど出来ようはずもない。
コミュニケーションの不安定さを引き受けてゲームに参画しよう、という呼びかけは、コミュ障にはそんな高度なことを要求されているように見えるのだ。

ウィトゲンシュタインの言語ゲームは、透明か不透明か、ということではないと思う。
僕たちは、気づいた時にはすでにゲームに(こう言って良ければコミュニケーションに)巻き込まれている。透明さが先にある訳ではないし、不透明さがある訳でもない。
僕たちがゲームを不透明だと感じるのは、自分が巻き込まれているゲームが何なのか、僕たちにはわからないからだ。やってみないと、透明か不透明かはわからない。しかも、自分のアクションがゲームを変質させるかもしれない。
勿論そのゲームの基盤には生活形式の一致がある。でもどの一致に基づいてゲームがされているのかはわからない。

それでも何かに関わりたい。
僕たちはそう思う。
その「何か」は、もし許されるならば、実は人間相手ではなくてもいいんじゃないか。そういうゲームもアリなんじゃないか。それからまた何かつながっていくかもしれない。
コミュ障が思うウィトゲンシュタインの哲学は、そんな所まで許容してくれるような気がする(気のせい😅)。

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