無自性と仏

【無自性】
 仏教で、それ自体に決まった本質がないことを「無自性」と言います。自性とは、その物に備わっている固有の性質のことです。それは、存在している限り、常に同一性を保ち続け、外から影響を受けることもないとされています。無自性とは、それぞれのものに、個別に独立した性質はないとする考え方です。通常、我々は、それぞれのものに、他とは違うそれ固有の本性があると仮定しています。例えば、自分というものは、他人や外部という環境がなくても、自分は自分自身だと考えているからです。しかし、それは常に同じというわけではありません。なぜなら、時間の経過や、周囲の環境の変化によって、人は変わるからです。

【空と縁起】
 無自性を「空」という思想と結びつけたのが「龍樹」という人物です。龍樹「ナーガルジュナ」は、一切が無自性であるなら、世界は空であるとしました。空とは、実体がないことです。ただし、何もないことではありません。実体はなくても、そこには相互依存関係はあるとしたからです。その相互依存関係のことを「縁起」と言います。
 縁起とは「因縁生起」の略です。龍樹は、全てのものは、縁起という関係性の総体だとしました。その関係性は、相互に限定されています。限定されるとは、存在というものが、他の存在があって、はじめて成立しているという意味です。例えば、長い物がなければ、短い物も存在しません。それらは、セットで成立しています。縁起とは、全てが、そのような関係性によって成り立っているという考え方です。その関係性は、仮に成立している一時的なものにすぎません。なぜなら、世界は常に移り変わっているからです。私と言うものも、そうした相互依存関係の中でのみ成り立つとされています。

【法身】
 仏とは、万物そのもののことで、それは、全てであり、唯一のものとされています。そのため、区別がなく、特徴というものがありません。なぜなら、それと比較するものがないからです。そのように特徴がないことを無自性と言います。仏には、始めも終わりもありません。永遠に同じものとして常に存在していました。
 仏教の真理とは、仏そのもののことです。それを法身「ほっしん」と言います。「法」とは、宇宙の「法則」や「真理」ことです。別名を理法と言います。理法とは、仏が説いた永遠に変わない定めのことです。

【仏性】
 人々に、生まれながらに備わっている、仏になりうる可能性のことを「仏性」または「如来蔵」と言います。仏教の究極の目的は、成仏することです。それを実現しうる可能性は、誰にでもあるとされています。なぜなら「全ての生き物」または「万物」には、ことごとく仏性が有るとされるからです。そうした考え方を「一切衆生悉有仏性」と言います。一切衆生悉有「いっさいしゅじょうしつぶっしょう」は、大乗仏教の根本思想で、それは、小乗仏教にはありません。普段、仏性というものに気づかないのは、それが、煩悩によって、覆い隠されているからです。煩悩から離れれば、その真理を理解出来るとされています。

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